日本の歴史上で官軍が賊軍にコテンパンにやられたのは承久の乱(じょうきゅうのらん)以外にありません。
後鳥羽、土御門、順徳の3人の上皇が島流しの刑にあい、仲恭天皇が退位させられる異例の結果となりました。
ここから幕府にとって、天皇が畏れ多い存在でなくなり気兼ねなく口出しできる存在になっていきます。
中世 鎌倉時代
承久の乱の前は三者三様の思惑があった
承久の乱がおきる前は、主な政治勢力が3つありました。
朝廷のトップは後白河法皇です。法皇の考えは自分が院政で政治を行うことでした。頼朝には朝廷を助けるのを求めていて、それ以上のことは許しません。
太上天皇(だいじょうてんのう)
退位した天皇のこと。
上皇(じょうこう)
太上天皇の短縮した言い方。
太上法皇(だいじょうほうおう)
出家した上皇のこと。たんに法皇という。
院(いん)
上皇の住まい。そこから上皇・法皇のことを『○○院』と呼ぶ。
くわしくは『太上天皇とは何か?』へ
頼朝にいろんな権限を渡したのは、敵に回すと危ないので少しずつアメを小出しして味方に引き止めていたから。
頼朝に近づかないと朝廷の未来はないと考える人もいました。摂政・関白・太政大臣を務めた 九条兼実(くじょう かねざね)です。
太政官(だいじょうかん)
律令制のなかで政治を動かすトップの組織。いまでいう内閣みたいなもの。
四等官 | 官位 |
---|---|
長官 (かみ) | 太政大臣(令外官) 左大臣 右大臣 内大臣(大宝律令で廃止。令外官として復活) |
次官 (すけ) | 大納言 中納言(大宝律令で廃止。令外官として復活) 参議(令外官) |
判官 (じょう) | 少納言など |
主典 (さかん) | 省略 |
左大臣は総理大臣みたいなもの。行政の全責任を負う。
最初はなかったが、近江令で左大臣のさらに上の太政大臣ができた。
最初の太政大臣は大友皇子。
(その後、平清盛、豊臣秀吉など)
太政大臣は、よっぽどの人でないとなれないので空席もあった。
明治新政府で置かれた太政官は同じものではなく、似たものをつくって置いた。『だじょうかん』といい呼び方もちがう。
明治18年に内閣制度ができて消滅する。内閣制度はイギリスがモデルだが、いまでも名前で太政官が受け継がれている。
内閣の一員 -> 大臣(だいじん)
官僚組織 -> 長官(ちょうかん)、次官(じかん)
日本では大臣を『相』ともいう。呼び方が2つあるのは日本独自と輸入品の両方を使っているから。
首相 = 総理大臣
財務相 = 財務大臣
○○相 | イギリスの議院内閣制の閣僚の日本語訳 |
○○大臣 | 太政官の名残り。日本だけ。 |
政治ニュースでよく見るとわかる。外国の政治家には『大臣』といわず『相』といっている。
ちなみに、アメリカのような大統領制の『長官』は太政官の長官(かみ)とは関係ない。日本人に分かるようにあてはめただけ。
大臣は『天皇の臣下のリーダー(大)』という意味。天皇がいないと大臣は存在できない。天皇の『臣下=君主に仕える者』だから。
兼実は、頼朝の求めるものをかなえて良い関係を築こうとします。法皇は、頼朝の力が増大するだけで立場が悪くなると思っていました。
一方鎌倉は、朝廷からはなれて鎌倉武士を中心にした社会を目指しました。鎌倉のすることに朝廷は関わらせたくないという考え。
この3者の微妙なバランスで1183~1192年までつづきます。
1183~1185年は平家政権だったので、勢力図はさらに複雑。
わけが分からなくなるのでここでは割愛。
1192年、三つ巴のバランスが崩れる
1192年、後白河法皇が亡くなります。あとを継いだのは後鳥羽天皇でまだ12才でした。
法皇が亡くなったことで、幕府を朝廷の下に置こうとする勢力(後鳥羽天皇派)の力は弱まります。
そこで九条兼実と源頼朝が動きました。九条兼実のあと押しで頼朝が征夷大将軍に任命されます。兼実は上皇・天皇が考えとちがうことをしました。
征夷大将軍を手に入れた頼朝は、朝廷の力を超えるチャンスをつかみます。朝廷内では、勝手なことをした兼実に対する不満がたまっていました。
九条兼実は用無しになって捨てられる
征夷大将軍になって力をもった頼朝は、ますます朝廷に圧力をかけます。まず、協力者だったはずの九条兼実の切り捨て。
勝手なことをして朝廷内での信頼を失っていた兼実は、後鳥羽天皇に嫁がせていた娘に子供ができないことで、さらに力を失いました。
影響力がなくなった兼実は、鎌倉にとってもジャマになっていたのでしょう。1196年、ついに関白を辞めさせられ失脚します。
(何より成長した後鳥羽天皇が幕府に近づく兼実を嫌っていた。)
後鳥羽天皇も負けてはいない
兼実がいなくなった1197年、19才になった後鳥羽天皇も動きます。退位して、自分の息子(土御門天皇)を即位させました。
後鳥羽天皇は、あくまで上皇・天皇中心の政治を目指していました。
後鳥羽上皇 vs 鎌倉幕府の構図が出来上がる
3者のひとりがいなくなって、朝廷と幕府が並び立つ状態になります。当時の鎌倉幕府は、西日本、四国、九州に影響力をもちはじめましたが、朝廷を超えるものではありませんでした。
京都を境にして西日本は朝廷、東日本は幕府が勢力をもっていて、どっちが強いというわけではありません。この均衡状態がしばらくつづくことになりました。
その間も、守護・地頭の設置を認められた幕府は、それらを全国に派遣して幕府の全国統治を進めていく。
3代将軍 源実朝暗殺で一気に崩れる
後鳥羽上皇が院政をはじめてから22年後の1219年、鎌倉幕府3代将軍 源実朝(みなもとの さねとも)が甥っ子の公卿(くぎょう)に暗殺されます。
実朝は暗殺される前、朝廷との融和の約束をしていました。実朝には後継者がいないので、その後継者を朝廷から迎え入れるという約束。
その候補は頼仁親王(よりひと)です。後鳥羽上皇の息子で、土御門上皇・順徳天皇の弟。
後鳥羽上皇は、政治に無関心の土御門天皇に不満で、天皇の弟・順徳天皇を即位させていた。
朝廷と幕府は近い家族関係になろうとしましたが、朝廷、幕府の両方から強い反対にあいました。
鎌倉の御家人たちは、朝廷と近くなることに反発しました。朝廷からいろいろ言われるのが嫌だったから。
御家人(ごけにん)
鎌倉時代の幕府に従う武士。
家人(けにん)を丁寧な言い方にしたもの。家人は『主人の家の人』という意味で主人に従う人という意味。
鎌倉の力が圧倒的だったので、家人にも『御』をつけるくらい気を使った。
御家人の主人は鎌倉の将軍ではなく鎌倉武士の組織だった。そのため、鎌倉幕府が消滅すると御家人も消滅する。
(全員死んだわけではない。武士のひとつの形が消滅した。)
鎌倉時代の言葉として使われることが多く、ほかは『家臣』と同じ意味で使われる程度。
一方朝廷は、皇族を幕府の将軍にすると、関東武士が朝廷の高い位につくのが嫌でした。関東の田舎モンに自分の同僚・上司になってほしくなかったから。
3代将軍 実朝は朝廷と幕府の融和の最後の砦
これを調整していたのが実朝でした。幕府では新将軍を実朝の猶子(ゆうし。養子)として迎え入れ、実朝が後見人になって幕府の御家人たちを抑えます。
朝廷では実朝と連携した後鳥羽上皇が不満分子を抑えていました。しかし、この融和案は、実朝が暗殺されて崩壊します。
なぜか後鳥羽上皇が融和政策を拒否
実朝の暗殺後、幕府から約束どおり後鳥羽上皇の息子の将軍就任が打診されますが、上皇は拒否。上皇は実朝がいるからできると思っていたみたい。
くわしくは書きませんが、当時の鎌倉は暗殺や謀略が横行して崩壊寸前でした。だれがリーダーになるのかさえ分かりません。あの北条氏でも油断するとつぶされそうなほどです。
後鳥羽上皇には、実朝がいない鎌倉では、御家人に息子が殺されるかもしれないという不安があったのでしょう。
ここで朝廷と幕府の和平が決裂しました。
朝廷と幕府の完全決裂
将軍就任を拒否した後鳥羽上皇は幕府にいろんな要求をします。幕府はこれをはねつけて、逆に朝廷に要求をつきつけました。
これに後鳥羽上皇はブチ切れします。ついに幕府の執権 北条義時(ほうじょう よしとき)追討の宣下を出しました。
- 上皇は幕府の追討を命令していない。悪いのは北条氏で幕府が悪いとは言っていない。
- 後鳥羽上皇は幕府をつぶすと言うと、朝廷に武士が集まるか分からないと思っていた。
- あくまで北条氏をつぶすと言って、味方になる武士を集めやすいようにした。
- 当時の鎌倉武士は北条氏に従順な集団ではなく、形勢が変われば朝廷になびく可能性が十分あった。
- 鎌倉武士には北条氏の失脚に内心喜ぶ勢力がいたので、それに期待した。
これに朝廷では、
義時は朝敵になったのだから、彼に味方するものは千人もいないはず
という意見が大勢でした。
もう戦争以外ないところまできました。
ついに承久の乱 勃発!
1221年5月15日、義時追討宣下を出した直後に、上皇軍は京都守護職の伊賀光季(いが みつすえ)を討ちます。これには幕府に動揺が走りました。
しかし、北条義時の姉で源頼朝の妻・北条政子(ほうじょう まさこ)が、
と名演説をして、幕府軍の結束を固めます。
あれだけ身内でつぶし合いをしていたのをまとめた政子はとんでもない人です。
そして、義時の息子・北条泰時(ほうじょう やすとき)を総大将にして北条軍が京に攻め込みました。
戦は北条の圧勝でたった1か月で終わります。
京都守護は幕府の役人で、朝廷の監視役もしていた。
戦後処理での朝廷の処分はとてつもなく厳しかった
北条氏の朝廷への処分は厳しいものでした。
後鳥羽上皇は隠岐(おき。島根)に島流しになり、後鳥羽上皇に味方して戦うため天皇を退位していた順徳上皇は佐渡(さど。新潟)に島流しされました。また、土御門上皇も土佐(とさ。高知)に島流しされます。
すべての上皇が島流しの刑にあいました。そして仲恭天皇を退位させ、新たに後堀河天皇を即位させます。また、後鳥羽上皇軍に関係した公家、武士の多くは死罪になりました。
土御門上皇はすぐに阿波(あわ。徳島)に場所を移された。
承久の乱のおかしいところ
承久の乱はおかしいです。なぜか、北条氏が朝廷を厳しく罰しています。
戦争に勝ったんだからあたりまえでしょ?
と思うかもしれませんが、そもそも北条氏は幕府の有力御家人で、鎌倉幕府将軍の部下です。その将軍の地位を保証しているのは天皇と上皇。北条氏からすれば上司の上司で、会社の社長・会長です。
北条氏は戦をして勝つところまではできますが、本来は朝廷の人を罰せません。また、天皇の即位・退位に口を出せる立場でもありません。
(朝廷にいろんな要求はできるでしょうが。)
北条氏は上皇を京都から追い出し、天皇を無理やり交代させて、関係者を殺しました。こんなことは日本の歴史上例がありません。
足利尊氏も、織田信長も、豊臣秀吉も、徳川家康でもしていません。
北条氏が日本の歴史を一変させた
承久の乱は前代未聞だらけです。上皇が先頭に立って戦争したのもそうだし、正規軍が大惨敗したのもそう。
北条氏は朝敵なので、京都に攻めてきた時点で反乱軍ですからね?
その反乱軍が勝って正規軍を一掃しました。しかも、自分の立場を保証している上司なのに。
そしてなにより、この戦で日本社会が一変しました。
本当の武士の世界の始まり
乱が一段落すると、乱の初戦になった京都守護から朝廷の監視を独立させた機関を六波羅に作りました。
これで、鎌倉武士が朝廷をつねに監視する逆転現象が起きます。朝廷と幕府の力関係の逆転が、800年後の幕末まで変わりませんでした。
この機関は鎌倉時代の末期には六波羅探題(ろくはらたんだい)へと発展します。
日本全体に武家社会が浸透する
北条氏は処分した公家や僧侶から没収した3000か所の所領を、鎌倉に味方する武士に分け与えます。そのほとんどは西日本にありました。
これで武家社会が、浸透していなかった西日本にも広がります。日本は侍の国になりました。
承久の乱は、日本の歴史にとって一番の転換期でしょう。世界に行っても『SAMURAI』は通用するぐらいなので。