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天皇の名前には、なぜ尊(命)が最後に付いていたのか? なぜ帝(みかど)というのか?

菊花紋章

古代の天皇は長くて漢字で書いてあると読めない名前ばかりで、その後ろには『みこと(尊・命)』がついてます。

(正確には名前じゃない。)

そして、平安時代には〇〇帝と呼ぶようになりました。どうやらあの当時の人々も同じことを思ったらしい。

『長すぎてめんどくせーよ!』って。(個人的な想像)

みこと(尊・命)は『神さま』

日本は歴史と神話がつながっている、先進国の中では珍しい歴史観を持っている国で、神話の世界に人間は出てきません。

出てくるのは神々。八百万の神(やおよろず の かみ)は数え切れないほど神がいるという意味。

(決して800万のカミがいるということではない。)

これらの神の名前には、『みこと』がついています。漢字では『尊』『命』が当てられる。

この話で一番古い書物は古事記と日本書紀で、これでしか分からないんですが日本書紀では尊を使い古事記では命を『みこと』に当てています。

古事記と日本書紀(こじき。にほんしょき)

第40代 天武天皇が号令をかけて作った国家の歴史書。ふたつあわせて記紀(きき)いう。

それ以前の歴史書は、焼失や理由の分からない消失でいまは存在しない。

国記と天皇記

第33代 推古天皇のとき、聖徳太子蘇我馬子(そが の うまこ)が編集長になって作ったと言われる。

国記
(こっき)
国家の歴史書
天皇記天皇の系譜

天武天皇の息子・川島皇子(かわしま の みこ)、忍壁皇子(おさかべ の みこ)が編集長になり作業をはじめた。

そのときにまとめたのが帝紀と旧辞と言われる。

帝紀と旧辞

帝紀
(ていき)
天皇の系譜、功績をまとめたもの。
旧辞
(きゅうじ)
各氏族の系譜をまとめたもの。
氏族や民など、いろいろな人々に伝わる伝承をまとめた。
日本書紀に出てくる『上古諸事』は旧辞を指すとも。

帝紀と旧辞は一体だったとも言われはっきりせず、ふたつとも現存しない。

当時、重要な情報は覚えて口伝えする職業(誦習者。しょうしゅうしゃ)があり、稗田阿礼(ひえだ の あれい)が帝紀・旧辞を覚えた。

帝紀と旧辞が古事記と日本書紀の基本資料になり、飛鳥時代以前の歴史は、古事記、日本書紀にたよる。

古事記(こじき。ふことふみ)

帝紀・旧辞を稗田阿礼に誦習させたが、天武天皇が亡くなると作業が中断した。

712年(和銅5)、第43代 元明天皇のとき、太安万侶(おお の やすまろ)が阿礼の記憶、帝紀・旧辞から文字起こしして書物にまとめたのが古事記。

20年以上の中断があり完成に30年以上かかった。

(阿礼は、帝紀・旧辞だけでなく、無くなっていた数々の歴史書も覚えていた暗記の天才と言われる。)

日本書紀(にほんしょき)

完成は古事記よりもおそく、720年(養老4)、第44代 元正天皇のころに完成。

中断していたのか?たんに時間がかかったのか? 完成までの経緯はよく分かっていない。

天武天皇の息子・舎人皇子(とねり の みこ)が編集長。

古事記倭語を漢字にあてた。
『夜露死苦』(よろしく)みたいに。

国内向け。
国家統一に利用するためか?
日本書紀漢字で書かれた。
(中国人でも読める。)

国外向け。
世界に日本をアピールするために利用か?

『みこと』は『神さま』という意味で正確には名前じゃありません。

日本書紀古事記
いざなぎ の みこと伊弉諾尊伊邪那岐命
いざなみ の みこと伊弉冉尊伊邪那美命

名前と『みこと』の間に『の』を付けて読むのはそのため。『伊邪那岐という名神さま』と言ってるのと一緒。

風土記(ふどき)もあるが、編纂された時期は若干遅い。

奈良時代の第43代 元明天皇が地方の国勢を調査するため編纂を命じた。

風土記は地方の国の歴史を書いたもの。

古事記は元明天皇の頃に完成して献上された(712年)。日本書紀は8年遅れて完成した(720)。

(日本書紀の完成時は元正天皇の時代。)

国の歴史書が出来上がりつつあったので、次は地方だ!になったのが風土記。

最上級は『神』『大神』

神話のカミの中には、尊(命)を付けないほうが一般的になっているのもあります。天照大神や大国主神など。

アマテラスは天皇の血統の第1世で天上界のリーダーのカミ。オオクニヌシはアマテラスの弟・スサノオの子孫で地上界のカミのリーダー。

天神地祇(あまつかみくにつかみ)

日本のカミは大きく天界のカミと地上(国土)のカミに分かれる。

天のカミあまつかみ。
てんじん。
天津神。
天神。
天上界で生まれたカミ。
地のカミくにつかみ。
ちぎ。
国津神。
地祇。
地上界で生まれたカミ。

天のカミの代表はアマテラス(天照大神)。地のカミの代表はオオクニヌシ(大国主大神)。

アマテラスは伊勢神宮の内宮、オオクニヌシは出雲大社に祀られている。

オオクニヌシの先祖はスサノオで、アマテラスとスサノオは姉弟。

ふたりはケンカ別れをしているので天津神と国津神は系統がちがう。

この分別は、日本列島に国が作られていく過程と関係が深く、天津神は天皇とそのまわりの氏族、国津神はそれぞれの地域で独立していた豪族をあらわす。

天津神の子孫、初代・神武天皇は、国津神の子孫の豪族たちを味方につけながら、戦争して討伐しながら天下統一を目指し、ヤマト(奈良)に都を作った。

数あるカミの中でも重要なポジションにいるものは『神』『大神』を使います。大神は大御神(おおみかみ)ともいう。

日本の神さまは名前をいくつも持っていたり、当てられた漢字がちがうものが複数あったりするので、アマテラスやオオクニヌシにも尊(命)がついてる呼称もあります。

尊(命)は天皇や皇族の名前として使われる

日本の歴史では、神話の神々の子孫が人間になって人間世界が始まります。そのとき、カミの子孫たちはそのまま名前の尊(命)も引き継ぎました。

ただ、大王(のちの天皇)を中心とした国(ヤマト王権)ができていったので、尊(命)を使う人が天皇やその家族の皇族たちに限定されるようになります。

(まわりがリーダーに気を使った。)

ヤマトタケルは有名ですが、天皇にはなっていないけれども天皇の息子なので大和武尊・倭健命と『みこと』がついています。

歴代天皇の最初の方は必ず名前に尊が付いています。

名前
初代 神武天皇神日本磐余彦尊
(かむやまといわれひこ の みこと)
第10代 崇神天皇御間城入彦五十瓊殖尊
(みまきいりびこいにえ の みこと)
第15代 応神天皇誉田別尊
(ほむたわけ の みこと)
第16代 仁徳天皇大鷦鷯尊
(おおさざき の みこと)

この習慣は平安時代の初期まで続きました。

第50代 桓武天皇日本根子皇統弥照尊
(やまとねこ あまつひつぎ いやてらす の みこと)
第51代 平城天皇日本根子天推国高彦尊
(やまとねこ あめおしくに たかひこ の みこと)
第53代 淳和天皇日本根子天高譲弥遠尊
(やまとねこ あめたかゆずる いやとお の みこと)
平安時代の尊がつく天皇

日本根子は第7代 孝霊天皇から使われている伝統的な語で、この地(日本)に生まれた地元っ子という意味なんだろうと思う。

尊が付く名前は和風諡号

『尊』が付くものは正確には名前ではなく諡号です。死後に付ける戒名みたいなもの。亡くなってカミになるので元の『神さま』の意味に戻ってるようにも見える。

今、天皇名として馴染みのあるものは漢風諡号で尊がつくものは和風諡号。中国風の戒名と日本語風の戒名。

じつは、歴代天皇の第30代 敏達天皇までは、『〇〇尊』以外の名前を持っている人は数人しかいません。

漢風諡号尊のつかない名
第23代 顕宗天皇弘計王
(をけのみこ)
第24代 仁賢天皇億計王
(おけのみこ)
第26代 継体天皇男大迹王
(おおどのおおきみ)
第28代 宣化天皇檜隈高田
(ひのくま の たかた)
諡号以外の名を持つ古い天皇

(専門家レベルではもっといると思う。)

古い天皇も本名を持ってるはずなんですが(無いわけがない)、皇帝(天皇)の名前を呼んではいけないという中国由来の習慣があるので、古い人ほど本当の名が分かりません。

(呼んではいけない本名のことを(いみな)という。忌み名とも書く。)

諱が分かってる人は天皇になる前のエピソードがありそこで出てくるから。もともと即位するか分からなかった一皇族の中のひとりだったのかな?

古事記に出てくる天皇は奈良時代の昔話。

第30代 敏達天皇以前は、本当の名が分からないのには理由があります。それは奈良時代の人にとっても昔のことだから。

現存する日本の最も古い歴史書は古事記ですが『ふることふみ』とも読みます。『を書いた伝』を意味する。

古事記では第33代 推古天皇までしか歴代天皇は登場しません。ようは古事記を書いた人たちにとっても推古天皇までは歴史上の人物だということ。

古事記より前の書物はあまり残りませんでした。火事になると今みたいに消化できないし、皇族同士や豪族の戦争が多く書物を保管しても消失させるから。

100年前の推古天皇(聖徳太子)の時代にも歴代天皇を記した書物があったと言われます。

これは乙巳の変で自害した蘇我蝦夷(そが の えみし)が公文書図書館みたいなものをもっていて、一緒に焼けてしまったそう。

それが残ってたらもっと分かってたのに。

乙巳の変(いっしのへん)

645年、第35代 皇極天皇(こうぎょく)の目の前で、息子で皇太子の中大兄皇子(なか の おおえ の みこ)が蘇我入鹿(そがの いるか)を殺害した事件。

これで蘇我氏は一気に衰退する。

これをきっかけに、天皇中心の国家建設を目指す政治運動が始まる。

大化の改新(たいかのかいしん)

すでに歴史上の人になっていたので、当時呼ばれていた名前が分からない。

諱の習慣から必要以上に書物に書かなかったとも考えられる。

尊を使わずに天皇(すめらみこと)を使う人が現る

奈良時代には期間限定で、尊ではなく天皇を付ける人が現れます。

第42代 文武天皇倭根子豊祖父天皇
(やまとねことよおほぢ の すめらみこと)

天之真宗豊祖父天皇
(あめのまむねとよおほぢ の すめらみこと)
第43代 元明天皇日本根子天津御代豊国成姫天皇
(やまとねこ あまつ みしろとよくに なりひめ の すめらみこと)
第44代 元正天皇日本根子高瑞浄足姫天皇
(やまとねこ たかみずきよ たらしひめ の すめらみこと)
第49代 光仁天皇天宗高紹天皇
(あめむねたかつぎ の すめらみこと)

文武天皇はお祖母ちゃんの持統上皇が用意した律令制度の運用を始めた人。

律令(りつりょう)

律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。

7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。

日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。

律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。

持統上皇は、国名を『日本』に、大王は中国の皇帝と同等だとかましていたので正式に天皇と呼ぶように制度化しました。

その影響でしょう。文武天皇から3代続けて『みこと』ではなく『すめらみこと』を名前に使います。そのあと間が空いて光仁天皇も使いました。

この空白ではちょっとちがった名前を使い始めます。ヒントは仏教にハマって中国大好き天皇が即位したから。

天皇(すめらみこと)の付く名も和風諡号です。

文武天皇以前にも、尊の付く名を持ちながら、天皇(すめらみこと)の付いた名を持っていた天皇はいる。

皇帝を名乗る天皇が現る。

その空白期間の天皇は、中国と同じ『皇帝』を名乗りました。

日本オリジナルの天皇(すめらみこと)が嫌いだったというよりも、あえてオリジナリティを出さなくても、十分国としてオリジナリティが出てきた自信があったのでしょう。

もしくは、中国に憧れすぎてミーハーでやっちゃったのかもしれません。

第45代 聖武天皇天璽国押開豊桜彦天皇
(あめしるしくに おしはらき とよさくらひこ の すめらみこと)

勝宝感神聖武皇帝
(しょうほう かんしん しょうむ こうてい)
第46代 孝謙天皇高野姫尊
(たかの ひめ の みこと)

宝字称徳孝謙皇帝
(ほうじ しょうとく こうけん こうてい)
第48代 称徳天皇
(孝謙天皇と同一人物)
高野姫尊
(たかの ひめ の みこと)

宝字称徳孝謙皇帝
(ほうじ しょうとく こうけん こうてい)

仏教が名前にも影響か?

聖武天皇は政治のことは適当なんですが仏教のことになると、とたんにやる気を出す天皇でした。東大寺(奈良の大仏さま)を建立したのも聖武天皇。

(完成したときは退位して聖武上皇孝謙天皇の時代に開眼供養をした。)

娘の孝謙天皇も父に負けず劣らずの仏教マニア。再び即位した称徳天皇のときは出家していて仏教徒のまま天皇になっています。

おそらく『すめらみこと』を使ってない理由もここ。『すめらみこと』は仏教にはふさわしくないと思ったのかもしれません。

またこの親子は、仏教マニアと同時に中国が大好きでした。韓流にハマってる人と同じ。

それは元号にも表れています。日本の元号は漢字2文字でやってきて今でもそうなんですが、二人の親子の時代だけ4文字です。

これも中国にあやかっていました。

(一応、過去の歴代天皇からの流れを汲んで尊の付いた名前も持っている。)

第47代 淳仁天皇は、孝謙上皇に天皇をクビになったので淡路廃帝と言われる。

中国の追っかけ、仏教大好きは藤原氏の影響?

聖武天皇は初めての純粋な藤原系天皇でした。母と皇后が藤原氏。皇后は有名な光明子(こうみょうし)です。

じつは光明子が仏教が大好き、中国が大好きでした。中国の唯一の女帝・則天武后(そくてんぶこう)に強いあこがれを持っていたと言われます。

元号を4文字にしたのも光明子の強い影響があると言われる。

中国でもほとんどが2文字だが、憧れの則天武后が4文字元号を使った。

光明子は夫・聖武天皇が亡くなると、娘の孝謙天皇を凌ぐ影響力を持っていた。

政治権力も藤原氏で占拠され始めた頃。

おそらく、皇帝を名乗るようにしたのも光明子を筆頭にした藤原氏の影響。今までとちがう天皇像、国家像をアピールしたかったのでしょう。

しかし、称徳天皇はそれをぶち壊します。今まで一番可愛がっていた藤原氏の最大実力者・藤原仲麻呂(ふじわら なかまろ)を殺して、仏僧の弓削道鏡(ゆげ の どうきょう)に頼るようになりました。

称徳天皇が亡くなると道鏡が失脚して、仏教の評価が激下がりしたのでしばらく仏教は天皇から遠ざけられます。天皇が皇帝を名乗るのもこの期間だけでした。

皇帝の反動か? 最後の『すめらみこと』の名を持つ光仁天皇。

称徳天皇のあと即位したのは第49代 光仁天皇です。光仁天皇は第38代 天智天皇の孫で、聖武天皇ラインからは大きく外れた天皇でした。

(聖武天皇は天智天皇の弟の天武系統。天武系で100年続けてきた。)

皇后も聖武天皇の娘で直接藤原氏の影響があるわけではありません。

光仁天皇は皇帝を名乗るのを止め、『すめらみこと』の付いた名前に戻します。これが奈良時代の最後。いったん道が外れたものを戻して終わりました。

天皇が帝(みかど)を名乗る。

日本の歴代天皇は、帝(みかど)、〇〇帝(〇〇てい)と呼ばれる期間が一番長いです。平安時代から近代化した明治まで使われました。

それを最初に使ったのが平安時代を始めた第50代 桓武天皇

(延暦帝、柏原帝と呼ばれる。)

桓武天皇は皇帝から『すめらみこと』に戻した光仁天皇の息子ですが、中国大好きレベルは聖武孝謙称徳)親子に負けず劣らずでした。

出で立ちも中国風にするほどの気合いの入れよう。

桓武天皇は母が朝鮮国王の末裔とも言われる高野氏(たか の うじ)で、血統も考え方も、出で立ちも国際派の天皇です。

平安時代はこの〇〇帝が一般的になっていきます。尊のつく和風諡号は平安時代の初期の3人まで残りましたがフェードアウトしました。

第50代 桓武天皇日本根子皇統弥照尊
(やまとねこ あまつひつぎ いやてらす の みこと)
第51代 平城天皇日本根子天推国高彦尊
(やまとねこ あめおしくに たかひこ の みこと)
第53代 淳和天皇日本根子天高譲弥遠尊
(やまとねこ あめたかゆずる いやとお の みこと)
平安時代の尊がつく天皇

尊、天皇(すめらみこと)はどうして消えたのか?

これまで見てきたように、尊や天皇(すめらみこと)の和風諡号は長いです。平安時代に入ると貴族社会になり、記録を残すことが貴族の最大の仕事でした。

当時の人でも思ったでしょう。『長すぎて疲れるよ!?』って。

諡号なら『天皇』も入れて4文字で済む漢風諡号のほうが便利だし、〇〇帝のほうがシンプルでいい。(〇〇も2文字)

在位中の天皇のことはたんに帝(みかど)と言うようになります。さすがに在位中の天皇の名前を呼ぶのは恐れ多く諱(いみな)の習慣が残っている。

平安時代には天皇が上皇になって出家するのが当たり前になり僧名も持ち、上皇は〇〇とも呼ばれ、それにも名前がつく。

僧名、上皇の呼び方まで一般的になると長い和風諡号はさらに面倒臭くなったのでしょう。

もしかすると和風諡号は知られてないだけで、専門家しか見れないような文書には今でも使ってるのかもしれませんね?

諱(いみな)は忌み名でなくなる。

平安時代にはもうひとつ変化があります。天皇の本名が諱でなくなりました。ぼくらが読むような歴史の本でも出てきます。

記録として残るようになったので、本名が『言ってはいけない名前』『呼んではいけない名前』の忌み名でなくなっていきます。

呼んではいけないと言われても、記録で〇〇親王や〇〇内親王って書いてあるんだからタブーにしようがありません。

これによってある法則があることも分かります。天皇・親王・内親王の本名は男子なら『◯仁』、女子なら『◯子』が圧倒的に多く、漢字2文字で付ける。

平安・鎌倉・室町・江戸の時代を経てもそれは変わらず、このルールみたいなものは今の皇族でも脈々と引き継がれています。

上皇陛下明仁
(あきひと)
天皇陛下徳仁
(のりひと)
秋篠宮殿下文仁
(ふみひと)
悠仁親王ひさひと
愛子内親王あいこ
眞子内親王まこ
佳子内親王かこ

『みこと』が語源になってる? いろいろな言葉

『みこと(尊・命)』は『神さま』と言いましたが、それが語源になっている言葉が結構あるんじゃないかと思います。

もう何度も出てきたけど天皇を和語でいうと『すめらみこと』。天上界のリーダー・天照大神の子孫を表します。

(最終的に即位した人に限定される。)

皇子
皇女
御子
『みこ』と読める

御子は天皇の子、神の子、高貴な人の子など。

これは『みこ』とも読みます。天皇は国民を代表して国の安寧を祈る神道の斎主なので、カミとの距離が近い。

神社でカミのお世話をする人に巫子・巫女・巫がいますがこれも『みこ』。

これを見ても、皇族の人々はカミにお仕えしお世話をするのが本質だということが分かる。

また詔(みことのり)という言葉もあります。勅とも書く(『ちょく』と読むのが一般的)。これは天皇の命令書。

『尊(みこと理(・ことわり)』(神さまのいう物事の道理)の意味なんじゃないか? と今気づいた。

(正解かは知らん。)

探したら色々と出てきそう。

上奏(じょうそう)と勅(ちょく)・詔(みことのり)

上奏

政治の最高責任者から天皇に行なう報告。天皇への意見や相談。

勅・詔

天皇の命令。勅書(ちょくしょ)・詔書(しょうしょ)は命令書。詔勅(しょうちょく)ともいう。

勅と詔はケースバイケースで使い分けているが、ルールがよく分からないので同じものと思っていい。

1945年の玉音放送は、詔書。

天皇の命令を強調すると勅令(ちょくれい)、意見を強調すると勅語(ちょくご)という。

明治の教育勅語は天皇の意見。当時、天皇が国民に強制するものではない、勅令ではダメだということで勅語になった。

勅語は意見なので国民が絶対に聞かないといけないものではない。

天皇を『てんのう』と読むのは、一般的な天皇名に使われるのが漢風諡号だから。

漢風・和風を音読み・訓読みと言ったほうが分かりやすいかも。

『昭和』を音読み、『天皇』を訓読みして、『しょうわすめらみこと』はおかしい。

あまりに漢風諡号が一般化して天皇は『てんのう』という名詞になっている。

『すめらみこと』と読んだら、古代人か!ってツッコまれそうなくらい。

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三種の神器とは何か? いつ、どこから来て何のためにあるのか?
聖徳太子は厩戸王(うまやとおう)じゃないといけないのか? 厩戸皇子はどこへ行った?
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天皇・皇室の本

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『天皇について基本的なことを知りたい』『過去の天皇の人物像を知りたい』という人におすすめの本を選びました。

内容がかんたんで頭に入りやすく、でも内容が薄いわけではありません。むしろ濃いくらいです。

日本人なら知っていてほしい天皇・皇室の基礎知識だけでなく、外国の人に説明できるくらいの知識が身につきます。

文章が苦手な人にはマンガ本もあります。

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