連載
日本から天皇がいなくなる日 Vol.7
天皇の男系男子継承の伝統は、いつ始まったのでしょうか?
この答えを探すには、『男尊女卑』『女性蔑視』の思想はどこで生まれたのか?が大きく関係しています。まずは、日本の『男尊女卑』について見てみましょう。
(ヒントは中国から輸入してどこで採用し始めたか?)
ここでは、『男尊女卑』『女性蔑視』についてくわしく書いた『男尊女卑、女性蔑視とは何か?答えは男系主義にあり!』を一部抜粋して説明します。
男尊女卑・女性蔑視については、ちょっとだけ触れてさらっと流します。
『男尊女卑』『女性蔑視』の思想は輸入されたもの
『男尊女卑』『女性蔑視』の思想はなぜ生まれたのか?
これには『男系主義』が関係します。男系主義は、男性のDNAが『家』『一族』『地域』『国家』などの集団で最も価値がある考え方。
昔は『家の後継者は長男』という常識がありましたね? これも男系主義です。
その中で『男尊女卑』『女性蔑視』も生まれます。では日本の男系主義は自分で作り出したのか?
答えは『日本の男系主義は中国に大きく影響された。』です。
男系主義と戦争
中国はもともと母系社会でした。紀元前3世紀、秦が統一国家をつくるまえに春秋・戦国時代を経験して、完全に男系社会になったといわれます。
戦争は『暴力』で男が有利なので、戦乱の時代を経験すると男の価値が高まって男系主義になるということですね?
日本は、5世紀の倭の五王の時代に本格的に中国と交流をはじめました。このとき男系主義が入ってきたというのが有力です。
倭の五王(わのごおう)
中国の『宋書』に書かれた日本の5人の王のこと。
5世紀のおよそ100年間、日本が中国に貢ぎ物をして、その見返りに王の称号をもらっていた。
それが5人の天皇だったといわれている。(確定していない。)
また、中国の将軍にも任命されていた。
宋書の王 | 与えられた将軍 | 天皇 |
---|---|---|
倭国王・讃 (さん) | ??? | 第16代 仁徳天皇 |
倭国王・珍 (ちん) | 安東将軍 | 第18代 反正天皇 |
倭国王・済 (せい) | 安東将軍 | 第19代 允恭天皇 |
倭国王・興 (こう) | 安東将軍 | 第20代 安康天皇 |
倭国王・武 (ぶ) | 安東大将軍 ↓ 鎮東大将軍 ↓ 征東大将軍? | 第21代 雄略天皇 |
ランク | 将軍 | ランクイメージ |
---|---|---|
1 | 車騎将軍 | 皇帝直属の将軍。 中国軍本体。 戦車・騎馬隊? |
2 | 征東大将軍 | 東部方面司令の大将 |
3 | 鎮東大将軍 | 東部方面司令の中将 |
4 | 安東大将軍 | 東部方面司令の少将 |
5 | 征東将軍 | 東部方面司令の大佐 |
6 | 鎮東将軍 | 東部方面司令の中佐 |
7 | 安東将軍 | 東部方面司令の少佐 |
※ 中国からみた東国を担当する将軍。
※ 『東を征服する』『東を鎮圧する』『東を安定させる』の順にランク付け。
これが日本と中国の本格的な外交のはじまりで、将軍は中国皇帝の部下なので中国の属国になる。安東将軍はランクが低い。
(日本は朝鮮王より低いランクから始まった。それからランクアップしていく。最終的に朝鮮に並んだとかいないとか。このへんは微妙。)
天皇のまわりの豪族たちにも欲しいと日本から要求したので、称号は天皇以外ももらっていた。
九州などの豪族たちも、ヤマトを無視して称号をもらっていたとされる。
損をしているように見えるが、中国の世界最先端の技術・文明が日本に入ってきた。
このとき、母系社会の日本に男尊女卑・男系思想が入ってきたと言われる。
当時の中国は南北朝時代で、日本は南朝の宋(劉宋)と国交を結んでいた。
(北朝はすぐに東西に分裂し南朝よりも不安定だった。)
しかし、飛鳥・奈良時代は天皇の近親結婚はあたりまえで、多くの女帝も即位しました。
また、中国からもってきてコピーした律令に、わざわざ男系主義が薄まるようなオリジナルの変更を加えてます。
(中国の律令はガッツリ男系主義。)
大宝律令・養老律令のオリジナリティ
口分田(民衆に与える土地)に女性が含まれる。
(中国では男子のみになっていた。)
女帝の子に皇位継承権を与える。
(オリジナルにわざわざ追記。)
日本はまだ、完全な男系主義になったとはいえません。
大宝律令と養老律令
古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。
近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。
律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。
大宝律令(たいほうりつりょう)
701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。
中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。
第42代 文武天皇の時代。
(じっさいは持統上皇が行なった。)
大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。
養老律令(ようろうりつりょう)
718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。
大宝律令の改訂版。
突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。
養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)
撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。
天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。
養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。
養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良
撰定から施行まで40年もかかっている。
オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。
女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。
(大宝律令の持統上皇も女帝。)
(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)
近親結婚は、女性の血統も大事にしている証拠。
男系主義の本場、中国や朝鮮半島では近親結婚はタブー。
近親相姦くらい気持ちの悪いものとされている。
確定じゃないけど大宝律令の影響は絶大
日本は聖徳太子の時代に原始的な憲法を作りました。もちろん中国に影響されて。
大宝律令以前には、近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)もありました。
飛鳥浄御原令は10年以上かけて作ったんですが本場には勝てなかったようです。大宝律令をたった1年で編纂し、飛鳥浄御原令を捨てて大宝律令の採用にこぎつけました。
もちろん大宝律令は、飛鳥浄御原令のように日本のシステムに合うように作ったものじゃありません。短い期間だったので中国の丸コピーです。正確には日本に必要なものをピックアップしてまとめたもの。
そこに日本人らしさとか考える時間はありません。
律令は、社会のルールから行政組織のしくみ、刑罰など、ありとあらゆることを法で決めるので、中国の男系主義がかなり入り込んでます。
それもあってか、大宝律令・その修正版の養老律令は、ことあるごとに修正していきました。
(平安時代に入っても大がかりな修正が行われた。)
男系・男中心の社会はいつ始まったのか?
日本で男尊女卑があたりまえになったのは、いつ?
男系・男中心の社会はいつ始まったのか?
これをはっきりさせることはできません。長い時間の中で徐々にそうなったというところでしょう。ただし、ある程度の推測はできます。
男系主義の思想は、5世紀の倭の五王の時代に日本に入ってきましたが、天皇の近親結婚や多くの女帝の即位があって、まだ男系主義になったとはいえません。
(飛鳥・奈良時代まで)
しかし、男系主義になってるか? と思わせる変化もありました。
天皇の近親結婚は、異母兄弟でもあたりまえで、推古天皇の夫は異母兄です。
でも、飛鳥時代には異母兄弟での結婚がなくなっていきます。そして、叔父と姪、伯母と甥の結婚が多くなりました。少しだけ血統が遠くなりました。
平安時代がターニングポイントか?
平安時代は通い婚が主流でした。妻問婚(つまどいこん)の一種で母系社会の典型的なかたちです。
通い婚(かよいこん)
結婚しても一緒に住まない形態。
男性が女性の家に通うことが名前の由来。女性は男性の家に行くことはない。男性は複数の妻を持つことができた。
一夫多妻制の別居婚。
生まれた子どもは妻の実家で育つ。
まだ、男系主義とはいえません。
でも、平安時代は天皇の近親婚が一気に減ります。女帝もまったく誕生しなくなりました。
そして、武士が台頭してきて嫁取り婚が増えていきます。男系主義が伝わってから300年たってようやく受け入れたようです。
(嫁取り婚は女性が男性の家に入って同居する。)
このように見てみると、日本の男系・男中心の社会は
考え方は古墳時代に入ってきて、300年の試行錯誤を経てから平安時代に一気に広まった
とするのが一番なっとくのいく答えだと思います。
(やっぱり男系主義には戦争が必要なのかも。武士は戦争が仕事だから。)
『男尊女卑』『女性蔑視』思想は明治に入ってからが強烈だった
平安時代が終わると、戦争に強い武士の社会になります。戦争に強いのは『男』が多いので、日本の中で自然に『男系主義』の思想が受け継がれたのでしょう。
しかし、天皇の皇位継承で女性は排除していません。江戸時代には2人の女帝が即位しています。
天皇の皇位継承から女性を排除したのは近代に入ってから。明治の大日本帝国憲法と同時に制定された、皇室典範から女性は排除されました。
皇室典範(こうしつてんぱん)
明治22年、大日本帝国憲法と同時につくられた皇室のルールを定めた典範。
憲法の下の法律ではなく、憲法と同格のものとしてつくられた。
これを典憲体制(てんけんたいせい)という。
1947年(昭和22)、日本国憲法の発布にあわせて、いち法律として格下げされる。
明治の典範は国会・内閣に典範を改正する権限はなく皇族がもっていた。
戦後、いち法律になったことで国会と内閣に改正する権限が移る。皇族会議はあるが最終決定権は皇族にない。
皇位継承についても皇族はタッチできないので、自分の家について意見は言えるが何もできないという問題点がある。
天皇の男系男子の継承の伝統は明治にはじまる
天皇の男系男子の継承の伝統は、ここからはじまります。
(天皇の歴史からするとあまりにも新しいので、伝統といえるか怪しい。)
ちなみに、相撲から女性を排除したのも明治時代です。江戸時代は、上半身裸で女性が土俵に上がっていたくらい。
明治時代は帝国主義時代のど真ん中で、日本人は常に戦争を意識していました。だからこそ、男系主義が強く出てしまい、『男尊女卑』『女性蔑視』が強く出てしまったのでしょう。
明治、大正、昭和初期の日本は、『男尊女卑』の思想が充満していました。もしかすると、日本の長い歴史の中で、一番『女性蔑視』が行われた時代かもしれません。
『男系男子の継承は初代神武天皇からつづいてきた伝統』はウソなのか?
よく保守の側から言われる、
男系男子の継承は、初代 神武天皇からつづいてきた伝統
はまちがっているのか?という疑問があると思います。言えることは
まちがいとは言わないが、異論をゆるさないほど絶対で優位なものでもない。
そのような白か黒かを判定できないことを、絶対的な正解として強弁するからおかしいんです。
神武天皇をことさら絶対視するナゾ
その背景には、保守の人々は、中国から輸入された『男尊女卑』の思想が、日本古来の思想だと思っているところにあります。
『男尊女卑』の思想が日本古来の宗教のオリジナリティだと思っています。
当人たちは、そのことに気づいてさえいません。宗教になっているので、他の意見は聞けないし、気づけないのでしょう。
『初代神武天皇から~』には、いろいろな疑問が投げかけられています。
- 古代の日本は男系思想が浸透していないのに、なぜ『日本書紀』『古事記』の歴代天皇は男系思想が入っているのか?
- 『日本書紀』『古事記』の内容は事実とかけ離れているのでは?
- 飛鳥・奈良時代は男系男子優位社会ではなく、半数以上が女帝で、母から皇位を受け継いだ天皇もいるのに『男系』を強調するのはなぜ?
- 天皇の皇統は天照大御神(アマテラスオオミカミ。女性)から始まっているのに、なんで神武天皇から語るの?
- そもそも天照大御神は女性なんだから、天皇は女系から始まっているでしょ?
- etc...
(ここで書いたものはごく一部です。でも、神武天皇から語る点にはいろいろなところで指摘されています。)
このように、
古代の日本は、男系・男子優位の思想が浸透していないのに、なぜその思想ありきで語るの?
というものばかりです。
『神武天皇・絶対』の疑問に対する珍解答
保守の人々は、古代の日本が『男系・男子優位の社会じゃない』ことを知らないので、これらの疑問に対する回答がチンプンカンプンです。
女帝は男系でつなぐための中継ぎにすぎなかった
そんなことはない。女帝の残した功績は大きい。
- 大王(おおきみ)から天子(のちの天皇)に格上げしたのは推古天皇。また、自らを”天皇”と初めて名乗る。
- 日本が独立国家として世界デビューを宣言したのも推古天皇の時代。
- 天皇の歴史で最初に譲位した(生前に皇位を譲る)のは皇極天皇。(当時は上皇という呼称はなかったが事実上の初の上皇)
- ”日本”という国名を制定、”天皇”、”上皇”という呼称を制定したときは持統上皇の時代。(天皇の歴史上最初の上皇)
- 日本が一人前の国家として認められるため、歴史書の編纂(日本書紀、古事記など)や法律の整備を行ったのは女帝が乱立した時代。
- 天皇に諡をつけたのは元正天皇から。このとき、それまでの歴代天皇に一気に諡をつける。諡は神武、綏靖...、推古...など。それまでは~ノミコトなどの個人名。いまは過去の天皇は諡で呼ぶのが一般的。
譲位(じょうい)
天皇が生前に退位して次の天皇を即位させること。退位した天皇は上皇になる。
第35代 皇極天皇が乙巳の変(いっしのへん)の責任をとって行なったことから始まる。
はじめは天皇の目の前で暗殺事件がおきるというアクシデントだった。
大宝律令で制度化され天皇の終わり方の常識になる。最初に制度化された譲位をしたのは第41代 持統天皇。
持統天皇から今上天皇まで80代の天皇のうち60代は譲位。
(制度化されてから2/3が譲位)
なかには亡くなっているのをかくして、譲位をしてから崩御を公表する『譲位したことにする』天皇もいた。
それだけ譲位が天皇の終わり方の『あたりまえ』だった。
譲位の理由はいろいろ。
次世代が育つ。 |
そのときの権力者の都合。 自分の娘を皇太子に嫁がせているので早く天皇にしたいとか。 (権力闘争に利用される) |
病気。 |
仏教徒になりたい。 |
幕府に抗議するため。 |
天皇の意思。 |
理由なし。 あたりまえだと思っていた。 |
『女帝は男系でつなぐための中継ぎ』と、ひとくくりにして見ることは学説で否定されています。いまは女帝を一人一人見て判断するようになっています。
その結果『次の天皇までの中継ぎだった』といわれる女帝もいます。
天照大御神は神話の世界のカミだから、そこから語れない
そもそも、初代 神武天皇は神話上の人物。2代から9代の天皇は欠史八代(けっしはちだい)ともいわれ、実在が確認されていない。
(神話上の人物とされている)
おなじ神話のはなしなのに、天照大御神はフィクションといいながら、神武天皇は信じるという理屈が、ちゃんちゃらおかしい。
(ただし、アマテラスはカミサマの世界、神武天皇は人間世界というちがいはある。)
このように保守の人々は、これらの疑問に対する回答を持ち合わせていないし、考えようともしません。
宗教の教典に書いているので、その必要はないということなのでしょう。考える力がないだけなのかも。
結局、『男系男子の継承は初代神武天皇から続いてきた伝統』はまちがっているのか? と言われれば、
『初代神武天皇から~』をいう人は、その理由を語らない、語る努力をする気もない。
ということは語れるだけの言葉をもっていない。よって信じるに値しない。
もし、今のままで信じることがあるとすれば、『男系男子継承教』に入信することぐらいでしょうか。
まずは、皇統問題が一発でわかる図解を用意しました。
衝撃の未来を見たところで、この15年、皇室になにがあったのか、政治がなにをしてくれたのか?
細かいはなしはちょっとにして流れだけを追ってまとめました。皇室に何が起きていたのか、よく分からない人はどうぞ。
流れを見ると、保守の人たちの主張に疑問しかありません。正しい意見ならこんなことしなくていいですから。
彼らは自分のまちがいを認めると、生きていけなくなるからやってるとしか思えません。
死んでしまうようなことをしてきたからダメなんですが。
- Vol 1. もうすぐ日本から天皇がいなくなる
- Vol 2. 天皇の血筋の男系・女系・双系のちがい。本人の性別は関係ない!
- Vol 3. 天皇の皇位継承の解決策は既にある。あとは選ぶだけだ!続けるも決断、止めるも決断。
- Vol 4. 旧皇族家系の人が皇室に復帰することがありえない理由。もう言葉遊びはやめてほしい。
- Vol 5. 天皇の男系男子の継承は伝統じゃない!作為のルールは永遠だと思ってるの?
- Vol 6. 大相撲の女人禁制と天皇の男系男子継承は根が同じ。明治の近代化の影響が大きい。
- Vol 7. 天皇の男系男子継承の伝統はいつ始まったのか?男系主義の元は中国からの輸入品。
- Vol 8. 政治家の15年のサボタージュが皇室を滅ぼす。それでもサボりは続く。
- Vol 9. ちょっと潮目が変わる兆しが
- Vol 10. 第2の玉音放送 - 生前退位 - 令和の新時代。歴史の貴重な目撃者になってますよ?
- Vol 11. 皇室はこれからどうなるか?の前にこれまでをおさらい
- Vol 12. 保守は上皇陛下(平成の天皇陛下)のなにがムカつくのか? 陛下にケンカ売ってどうするよ。
- Vol 13. 衝撃。男系継承をいう人は皇室消滅を考えてると断定していい
- Vol 14. 図で見りゃわかる。皇統問題は今すぐ解決できる!
- Vol 15. 天皇は女性から始まっている!
- Vol 16. ランキング付け。各党の皇位継承問題の解決案がそろってきた