摂関政治は『せっかんせいじ』と読みます。
平安時代に始まり、『摂政(せっしょう)と関白(かんぱく)が中心の政治』という意味。藤原氏が権力を独り占めした政治でもありました。
摂政は古代から元々あって長年使ってなかったのを復活させたもの。関白は平安時代に新しく作ったものです。
藤原氏が天皇中心の政治から実権を奪ったシステム
古代の飛鳥・奈良時代の日本は、当時の最強・最先進国の中国と対等になるために必死でした。
そのため天皇を中心とした中央集権国家を目指します。その目標は達成することができました。
中央集権国家(ちゅうおうしゅうけんこっか)
権力が、都など中心になる場所に集まった国家。
日本は東京に権力が集中しているのでこれに当てはまる。
平安時代になると、中央集権国家の建設に貢献した藤原鎌足(ふじわら かまたり)の子孫たちが政治権力を占めます。そこで生まれたのが摂関政治。
その中心は、摂政と関白という、官位にない令外官の2つの役職をトップにしたシステムでした。
律令(りつりょう)
律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。
7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。
日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。
律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。
関白になるとすぐに太政大臣にもなるのが通例だったようです。摂政はもっと幅が広く、左大臣や右大臣など政権中枢の人が兼務することもありました。
摂政が藤原氏に乗っ取られる
飛鳥・奈良時代の摂政は、皇位継承権のある皇族・皇太子が務めていました。聖徳太子が有名ですね?
しかし平安時代になると、天皇と親戚関係を築いた藤原氏の実力者に取って代わります。これを人臣摂政(じんしんせっしょう)と言います。
けっきょく人臣摂政が当たり前になり、結果的に摂政=藤原氏という常識が作られました。摂政の役職が皇族から藤原氏に乗っ取られたかたちです。
天皇を中心とした中央集権体制は、天皇の権威で運用する点で残りましたが、じっさいの政治権力で見れば崩壊しました。
藤原氏と皇室は、お互いに必要な存在で補いあう関係だったというのが、いまの歴史学の解釈です。
でも、摂関政治の中身を見ていくと、ちょこちょこ藤原氏は天皇をナメているフシがあるので『乗っ取り』という表現をしています。
関白は藤原氏のために作られた
摂政のもとの意味は天皇の代理です。藤原氏が務めるには無理があります。これを藤原氏は、まだ政治を見る能力のない自分の孫や親戚筋の天皇を補佐するという、強引な解釈で摂政を務めるようになりました。
それでも摂政には限界がありました。天皇も成長します。もちろん成長すると政治を見る能力は身につけます。
こうなると摂政はいらなくなり、藤原氏の実権が小さくなります。そこで、関白という役職を新たに作ることになりました。
関白は摂政とちがい成長した天皇を補佐する立場。天皇がどれだけ有能な政治家になっても関係ありません。
これで藤原氏は、天皇にだれがなっても、どのような状況になっても、政治の実権をにぎりつづける武器を手に入れました。
幼い天皇が多く出てきたのと摂関政治の登場はリンクしています。
天皇が幼いから摂政・関白が必要。
摂政・関白のためには何もできない幼い天皇が必要。
おそらく両方の理由から。
摂関政治はいつ始まったのか?
摂関政治は、最初に人臣摂政になった藤原良房(ふじわらのよしふさ)からはじまります。
(人臣ではじめて太政大臣にもなった。)
866年、藤原良房が摂政に就任。
第56代 清和天皇の時代。
良房の養子・藤原基経(ふじわらのもとつね)が、歴史上最初の関白になりました。
887年、藤原基経が関白に就任。
第58代 光孝天皇の時代。
これから代々、良房の子孫たちで人臣摂政と関白を歴任することになります。これが摂関政治のはじまりです。
摂関政治はいつはじまったのか? と言われれば、良房の摂政就任の866年でしょう。
聖徳太子も摂政でしたが摂関政治ではありません。そのあとも何人もの皇族の摂政がいましたが、摂関政治の摂政は人臣摂政のことです。
良房の正妻は第52代 嵯峨天皇の娘(源潔姫。みなもと の きよひめ)。
天皇の娘が臣下の嫁になるのはルール違反でしたが、民間人になっている(性が源)からOKってことでタブーを破りました。
(臣下の間で天皇の娘を嫁にする闘争がはじまるのを危惧していた。)
それだけ天皇の信頼を得ていたとも言えます。
摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)とは何か?
代々、摂政と関白を歴任することになる藤原良房の子孫たちは、藤原北家(ふじわらほっけ)と呼ばれ、藤原氏の中でもっとも力をもった系統に属します。
さらに藤原北家の中で、良房の子孫だけが摂政と関白を務めることができたので、これに属する家が摂関家(せっかんけ)。
鎌倉時代に入ると、摂関家の中で5つの家だけが摂政と関白を務めるように、もっとしぼられます。それが五摂家(ごせっけ)。
五摂家
- 近衛(このえ)
- 九条(くじょう)
- 二条(にじょう)
- 一条(いちじょう)
- 鷹司(たかつかさ)
五摂家の中でも頭ひとつ抜けているのが近衛家。五摂家の筆頭格です。
摂関政治のポイントは天皇の親戚になること
日本の政治は、古代から現代まで天皇の存在ぬきで行なうことはできません。政治の中心が天皇、藤原氏、上皇、武士(幕府)、内閣になっても変わりません。
ずっと天皇の権威あっての政治です。これは藤原氏も同じでした。藤原氏は天皇と親戚関係になって、天皇の権威のもとで政治の実権をにぎります。
この方法は藤原氏のオリジナルではありません。古代の日本から代々行われてきました。
天皇の権威を使った人たち
古代では、葛城氏(かずらき)、蘇我氏(そが)など、有力な豪族がこの手を使いました。有名な推古天皇、聖徳太子も母方は蘇我氏です。
鎌倉時代でも変わりません。さらに、幕府の将軍に皇族を就任させることもします。
江戸時代の徳川氏も同じです。
明正天皇(めいしょう)の外祖父は2代将軍 徳川秀忠です。外祖母は正室・お江。お江は織田信長の妹・お市の娘なので、明正天皇は徳川と織田の血筋を受け継いでいます。
(お江の父は浅井長政なので浅井も受け継いでいる)
また、14代将軍 徳川家茂の正室は孝明天皇の妹です。幕府と朝廷は家族と言ってもいいくらい。
話がそれました。戻しましょう。
良房の子孫たちは、妹・娘などを天皇の后として嫁がせ、外祖父・外伯父となって摂政・関白になります。そして、天皇を補佐するというかたちで政治の実権をにぎり、それを摂関家で独占しました。
ただしこの手法は、藤原氏内部の権力闘争を激化させます。『だれが天皇の親戚になって権力をふるうか』の闘争です。
形式上は明治維新まで続く
摂関政治は、第71代 後三条天皇の改革で影響力が小さくなりはじめ、政治の中心は、院政(天皇・上皇)、幕府(鎌倉、室町、江戸)へと移っていきますが、その過程の中で朝廷内の形式化されたシステムになりました。
五摂家が誕生する前は、摂関家内部の権力闘争が絶えませんでした。あまりの苛烈さに大乱の要因にもなっています。(保元の乱)
五摂家ができてからは、摂政と関白の就任条件が固定されて朝廷が安定します。この安定が摂政と関白をかたちだけの役職に変化させました。
政治権力が武士へ移ったことも大きいでしょう。
このように摂関政治は事実上、後三条天皇の改革ではじまる院政の時代に、終わりがはじまっていました。
それでも明治の王政復古の大号令・新政府樹立まで、1000年近くもつづき、終わらせたのは明治新政府が行なった摂関停止です。
太政大臣・摂政・関白はセットで登場
太政大臣・摂政・関白は、それぞれ単独で出てきたものではなく、当時の政治が必要としていたので段階を踏んで生まれました。どれが欠けても出てくることはなかったもの。
人臣の太政大臣が必要になった。
↓
人臣の摂政が必要になった。
↓
関白が必要になった。
これらが必要になった背景を見ていきましょう。なぜ平安時代のはじめに出てきたのかが分かります。
太政大臣のもとの意味
古代の太政大臣は次の天皇になるくらいの人が務めました。政治家としても皇族としても圧倒的な人です。
該当者がいなくて知太政官事という役職までできるくらい。
知太政官事(ちだいじょうかんじ)
第42代 文武天皇から第45代 聖武天皇の間に置かれた令外官。
律令政治の太政官を監督するマネージャー職。
(左大臣よりも上。)
有力な皇族が務めた。
だれが? | 就任時期 |
---|---|
忍壁皇子 (おさかべ の みこ) 天武天皇の子。 | 703年(大宝3)~ 705年(大宝5)。 第42代 文武天皇 |
穂積皇子 (ほずみ の みこ) 天武天皇の子。 | 705年(大宝5)~ 715年(和銅8)。 第42代 文武天皇 第43代 元明天皇 |
舎人皇子 (とねり の みこ) 天武天皇の子。 | 720年(養老4)~ 735年(天平7)。 第44代 元正天皇 第45代 聖武天皇 |
鈴鹿王 (すずか の おおきみ) 高市皇子の次男。 天武天皇の孫。 | 737年(天平9)~ 745年(天平17)。 第45代 聖武天皇 |
このときすでに太政大臣があったが、前例の大友皇子(おおとも の みこ)、高市皇子(たけち の みこ)のように、皇太子に匹敵する人でないとなれなかった。
太政大臣を置くと皇太子と並び立つので、皇位継承争いを避けるため知太政官事を置いたとも言われる。
じっさい、知太政官事がいたときの太政大臣は不在。
(その後、太政大臣は皇族でなくてもなれるようになる。)
結局、歴代知太政官事は第40代 天武天皇の子が務めた。
(最後の鈴鹿王だけ孫。)
本格的な律令政治を始めた天武天皇の威光があるうちだけの役職だったとも言える。
(天武天皇は皇親政治を始めた人でもある。)
皇族で政治を見ることができなくなり知太政官事も無くなります。そこで天皇の政治の補佐をするため優秀な政治一族・藤原氏が出てきました。
その間100年くらい、太政大臣は空席で忘れられていました。皇族として最高級、政治家として最高級のスーパーマンが出なくなっていたということ。
皇族の人材不足
皇族が政治をすると複雑な権力闘争がありました。ひとつは皇族の立場としての闘争、だれが天皇になるかの闘争です。
そしてもう一つは政治家としての権力闘争。ふたつの闘争はリンクしているので激しくなります。じっさい、足の引っ張り合いばかりで死んでいく皇子たちがたくさんいました。
そうなると後継者がいなくなります。孝謙・称徳天皇が出てきたのも人材不足からでした。
藤原氏は野心丸出しでしたが皇室からも必要とされてました。皇族は次の天皇をだれにするかに集中して、政治は藤原氏におまかせしようと。
そうすることで皇室と政治を安定させようとしたんですね?
政治を任された藤原氏に箔をつける
平安時代の基礎を作ったのは第52代 嵯峨天皇です。嵯峨天皇は兄・平城上皇と皇位争いをして、当時の藤原氏に君臨していた式家は上皇側にいたので、藤原氏は没落しかけてました。
しかし、次の第54代 仁明天皇のとき、式家に代わって藤原北家の良房が台頭します。仁明天皇は藤原北家から嫁をもらっていました。
良房は政治家としてグングン出世します。平城天皇のころから天皇の早めの退位が始まっていたので、政治家・藤原氏はますます必要とされてました。
第55代 文徳天皇のとき、藤原良房は人臣初の太政大臣になります。
このとき皇室は、政治を見るけど動かすのは藤原氏におまかせすることになりました。
幼少天皇の誕生
天皇が若くして退位すると皇太子も若くなります。というか赤ん坊・お子ちゃま。太政大臣・藤原良房は、第56代 清和天皇の皇太子時代の養育係もしていました。
そんなとき文徳天皇が退位します。次の清和天皇はこのとき9才。はじめての幼帝。養育係をしていた良房がそのまま教育係をすることになりました。が、ここで問題が。
いくら太政大臣でも天皇を教育するなんてことはできません。太政大臣は太政官のトップ、官僚組織のトップという意味なので。
太政官(だいじょうかん)
律令制のなかで政治を動かすトップの組織。いまでいう内閣みたいなもの。
四等官 | 官位 |
---|---|
長官 (かみ) | 太政大臣(令外官) 左大臣 右大臣 内大臣(大宝律令で廃止。令外官として復活) |
次官 (すけ) | 大納言 中納言(大宝律令で廃止。令外官として復活) 参議(令外官) |
判官 (じょう) | 少納言など |
主典 (さかん) | 省略 |
左大臣は総理大臣みたいなもの。行政の全責任を負う。
最初はなかったが、近江令で左大臣のさらに上の太政大臣ができた。
最初の太政大臣は大友皇子。
(その後、平清盛、豊臣秀吉など)
太政大臣は、よっぽどの人でないとなれないので空席もあった。
明治新政府で置かれた太政官は同じものではなく、似たものをつくって置いた。『だじょうかん』といい呼び方もちがう。
明治18年に内閣制度ができて消滅する。内閣制度はイギリスがモデルだが、いまでも名前で太政官が受け継がれている。
内閣の一員 -> 大臣(だいじん)
官僚組織 -> 長官(ちょうかん)、次官(じかん)
日本では大臣を『相』ともいう。呼び方が2つあるのは日本独自と輸入品の両方を使っているから。
首相 = 総理大臣
財務相 = 財務大臣
○○相 | イギリスの議院内閣制の閣僚の日本語訳 |
○○大臣 | 太政官の名残り。日本だけ。 |
政治ニュースでよく見るとわかる。外国の政治家には『大臣』といわず『相』といっている。
ちなみに、アメリカのような大統領制の『長官』は太政官の長官(かみ)とは関係ない。日本人に分かるようにあてはめただけ。
大臣は『天皇の臣下のリーダー(大)』という意味。天皇がいないと大臣は存在できない。天皇の『臣下=君主に仕える者』だから。
そこで、皇族が政治をしていた古代にあった摂政を復活させます。天皇を補佐する摂政なら天皇を教育しても文句は出ないでしょうと。
こうして史上初の人臣摂政・藤原良房が誕生しました。
摂政でも足りない
清和天皇が22才のとき、摂政・太政大臣・藤原良房が亡くなります。天皇は政治を直接見ることを辞めたので助っ人が必要でした。
そこで、良房の養子で藤原北家の長者になっていた藤原基経が摂政になりました。が、ここでも問題が。
摂政は幼い天皇を補佐するために復活させたのに、成長した天皇に摂政がいるのはおかしくなります。
基経が摂政になってから、ほかの政治家たちから文句が出たでしょう。基経以外にも天皇の親戚になって出世したい貴族はたくさんいたので。
そこで出てきたのが関白です。基経は関白になるとすぐに太政大臣になりました。天皇の補佐をする人が太政官のトップでないと都合が悪かったのでしょう。
摂関の藤原氏は天皇の子孫
摂関政治といっしょに大きな変化がありました。藤原氏が天皇の子孫になるのも摂関政治が出てきたころ。
摂関政治をはじめた藤原良房(ふじわらよしふさ)は天皇の娘をはじめて妻にしたと言いましたが、そこから歴代の摂政・関白は天皇の娘・孫娘など、天皇に近い女性を妻にもちます。
もちろん、その子どもがあとを継いでいくので、摂政・関白は藤原氏でも天皇の子孫... とは行かないこともあり、天皇の子孫の嫁をもらい続けました。
摂政・関白 | 天皇の子孫の妻 |
---|---|
藤原良房 (ふじわら よしふさ) | 源潔姫(みなもと の きよひめ)。 第52代 嵯峨天皇の皇女。 |
藤原基経 (ふじわら もとつね) | 1. 人康親王(さねやす)の娘。 第54代 仁明天皇の孫。 2. 操子女王(そうし)。 忠良親王(ただよし)の娘。 第52代 嵯峨天皇の孫。 |
藤原忠平 (ふじわら ただひら) 母が人康親王の娘。 第54代 仁明天皇のひ孫。 | 1. 源順子(みなもと の じゅんし / のぶこ)。 第59代 宇多天皇の皇女。 2. 源能有(みなもと の よしあり)の娘。 能有は第55代 文徳天皇の皇子。 文徳天皇の孫。 |
藤原実頼 (ふじわら さねより) 母が源順子。 第59代 宇多天皇の孫。 | 源氏の娘。 |
藤原伊尹 (ふじわら これただ) | 1. 惠子女王。 代明親王(よしあきら)の娘。 第60代 醍醐天皇の孫。 2. 源井殿。 源信明(みなもと の さねあきら)の娘。 第58代 光孝天皇の孫。 |
藤原兼通 (ふじわら の かねみち) | 1. 昭子女王(しょうし)。 有明親王(ありあきら)の娘。 第60代 醍醐天皇の孫。 2. 平寛子。 平時望(たいら の ときもち)の娘。 第50代 桓武天皇のひ孫。 第54代 仁明天皇のひ孫。 |
藤原頼忠 (ふじわら よりただ) | 厳子女王。 代明親王(よしあきら)の娘。 第60代 醍醐天皇の孫。 |
以下省略。 |
ここまで嫁ぐと、『藤原』の人でも天皇の子孫はいっぱいいます。
(追跡不能。)
摂関政治ができたころの天皇たちは、源氏を作るのがスタンダードだったのでその影響もありました。
(臣籍降下すれば臣下に嫁がせても問題ない。)
平氏が作られたのもこのころだが、源氏に比べマイナーだった。
(源氏が21の流れに対して平氏は4つしか出ていない。)
時代はグーッと下って室町時代の末期になると、天皇の息子を五摂家に養子に出すことまでします。
五摂家のうち3家は皇別摂家と言われるくらい、天皇家と藤原氏の血統の一体化は起きていました。
なぜ、藤原氏は権力をもちつづけたのか?
天皇から権力を奪ったと表現してきましたが、じっさいは天皇家の家族だから信頼されていたというのが本当のところ。
(天皇のお祖父ちゃん・お祖母ちゃん、叔父さん・叔母さん、甥っ子・姪っ子、いとこ・はとこが藤原氏。)