今の歴史の教科書では、聖徳太子は厩戸王(うまやとおう)がちゃんとした正解らしい。『厩戸王(聖徳太子)』と書いてあるそう。
歴史は正確さを大事にしようということらしいのですが、日本人の名前はそうじゃなくてもいいと思う。
だって正確な名前を教科書に書いたら覚えられない人がいっぱい出てくるもん。
名前が長すぎて覚えられない人がたくさんいる。
聖徳太子は名前ではなく尊称です。聖徳は『とても優れた知恵者』『天子の器を持った人』などの意味で、すごい人の最上級の表現。
太子は皇太子のことで次の天皇のこと。第33代 推古天皇の摂政だったことから呼ばれます。
本名が厩戸(うまやと)で死後100年以上経って、『振り返るとあの人のやったことスゴかったよね?』と再評価され聖徳太子と呼ぶようになりました。
太子が生きていた当時に呼ばれてないので正確に厩戸に変えたらしいんですが、ちょっとおかしい。
それなら推古天皇はどう呼ぶんだろう。『推古』は第44代 元正天皇が亡くなったときに付けた漢風諡号(かんふうしごう)で中国風の戒名みたいなもの。
約100年後に付けられました。
普段聞き覚えのある天皇名は、43代目までその時代にまったく呼ばれていません。
(歴代天皇の 1 / 3 は当時呼ばれてない諡。)
名前 | |
---|---|
初代 神武天皇 | 神日本磐余彦尊 (かむやまといわれひこ の みこと) |
第10代 崇神天皇 | 御間城入彦五十瓊殖尊 (みまきいりびこいにえ の みこと) |
第15代 応神天皇 | 誉田別尊 (ほむたわけ の みこと) |
第16代 仁徳天皇 | 大鷦鷯尊 (おおさざき の みこと) |
第33代 推古天皇 | 額田部 (ぬかたべ) |
第41代 持統天皇 | 鸕野讚良 (うののささら) |
だれが覚えられるんだよ? 名前をちゃんとしたら。
『訳語田渟中倉太珠敷尊(おさだのぬなくらのふとたましき の みこと)』って誰だか分かります?
これは推古天皇の夫で聖徳太子の叔父さんの第30代 敏達天皇のこと。古代以前の歴代天皇には、とんでもなく長い名前の人がいます。
厩戸も本当は長い。厩戸豊聡耳(うまやとのとよとみみ)
平安時代の初期まで長い名前を持つ天皇がいた。
『大和根子皇統弥照尊(やまとねこあまつひつぎいやてらす の みこと)』
これは第50代 桓武天皇。平安時代を始めた人。
こんなもんテストに出されても困るし意味ないでしょ? 絶対に桓武天皇がいい。
(ちなみに天皇になる前は山部(やまべ)という名だった。)
なぜ名前の最後が尊(みこと)なのか?
古代以前の歴代天皇の名前にはほとんどが尊(みこと)がつきます。命とも書く。
(日本書紀では尊、古事記では命が当てられている。)
古事記と日本書紀(こじき。にほんしょき)
第40代 天武天皇が号令をかけて作った国家の歴史書。ふたつあわせて記紀(きき)いう。
それ以前の歴史書は、焼失や理由の分からない消失でいまは存在しない。
天武天皇の息子・川島皇子(かわしま の みこ)、忍壁皇子(おさかべ の みこ)が編集長になり作業をはじめた。
そのときにまとめたのが帝紀と旧辞と言われる。
帝紀と旧辞
帝紀 (ていき) | 天皇の系譜、功績をまとめたもの。 |
旧辞 (きゅうじ) | 各氏族の系譜をまとめたもの。 氏族や民など、いろいろな人々に伝わる伝承をまとめた。 日本書紀に出てくる『上古諸事』は旧辞を指すとも。 |
帝紀と旧辞は一体だったとも言われはっきりせず、ふたつとも現存しない。
当時、重要な情報は覚えて口伝えする職業(誦習者。しょうしゅうしゃ)があり、稗田阿礼(ひえだ の あれい)が帝紀・旧辞を覚えた。
帝紀と旧辞が古事記と日本書紀の基本資料になり、飛鳥時代以前の歴史は、古事記、日本書紀にたよる。
古事記(こじき。ふことふみ)
帝紀・旧辞を稗田阿礼に誦習させたが、天武天皇が亡くなると作業が中断した。
712年(和銅5)、第43代 元明天皇のとき、太安万侶(おお の やすまろ)が阿礼の記憶、帝紀・旧辞から文字起こしして書物にまとめたのが古事記。
20年以上の中断があり完成に30年以上かかった。
(阿礼は、帝紀・旧辞だけでなく、無くなっていた数々の歴史書も覚えていた暗記の天才と言われる。)
日本書紀(にほんしょき)
完成は古事記よりもおそく、720年(養老4)、第44代 元正天皇のころに完成。
中断していたのか?たんに時間がかかったのか? 完成までの経緯はよく分かっていない。
天武天皇の息子・舎人皇子(とねり の みこ)が編集長。
古事記 | 倭語を漢字にあてた。 『夜露死苦』(よろしく)みたいに。 国内向け。 国家統一に利用するためか? |
日本書紀 | 漢字で書かれた。 (中国人でも読める。) 国外向け。 世界に日本をアピールするために利用か? |
これは、神話のカミの名前に必ず付いていたもので、その子孫とされる人たちはそのまま名前に引き継ぎました。
大王(おおきみ。のちの天皇)を中心にしたヤマト王権(日本の前身)が成立していくと、大王とその一族(皇族)以外は使わなくなります。
推古天皇は尊がつきませんが、これは母の身分が低く急遽即位したため。推古天皇の母は当時最強豪族の蘇我氏ですが、新興勢力でまだ権威が足りませんでした。
持統天皇も尊の付く名前を持っています。2つも。(長いのでここでは割愛)
尊の付く名前は平安初期まで使われました。
日本人には偉い人の名前を呼ぶのを躊躇する習慣がある
日本人には天皇を本名で呼ぶのは失礼に当たるという習慣があります。だから漢風諡号で呼ぶ。
漢風諡号は、いま日本人が天皇の名前だと思ってる〇〇天皇のこと。
外国の人は『ヒロヒト』(昭和天皇)、『アキヒト』(平成の天皇。上皇陛下)と書籍などで平気で書きますが、日本人はしません。
使うとしたら、即位する前の時代を語るときなど本名じゃないと表現がおかしくなる場合だけ。
令和の今の天皇陛下の名前が徳仁(なるひと)だと知らない人も多いでしょう。それは、長い間『皇太子さま』と呼ばれて今は即位されて今上陛下と呼ぶから。
聖徳太子も同じ。ただ『太子さま』と呼ばれてる期間が1000年以上もあってすごい長いけど。
ぼくもぎりぎり経験がある世代ですが、課長、部長って言わないとガン無視する人いました。これは自分が偉い自覚があって、下の人間に名前で呼ばれたくない、無礼だという感覚があるから。
天皇を経験した人のことを、その人が存命中に名前で呼ぶことはない。
だから上皇陛下のことを『平成天皇』と呼ばない。聞いたことないでしょ?
漢風諡号は戒名みたいなものだから。生きてるのに死んだことにするなんてこんな失礼はない。
たまに分かってなくて平気で言う人いるけど。
後々、平成天皇、令和天皇と言われるようになる。『昭和天皇』が当たり前のように。
聖徳太子が本名で呼ばれなかったのには意味がある
摂政で皇太子だった人に草壁皇子(くさかべ の みこ)がいます。第40代 天武天皇と第41代 持統天皇の息子。天武・持統政権で摂政・皇太子でした。
天武・持統政権は、明治維新に匹敵する、それ以上の日本の近代化をやってのけたすごい時代。そんな時代の草壁でも、今は『太子さま』と言いません。
大王(おおきみ)を『天皇』、国名を『日本』に決めたのもこの頃。
それまで中国から呼ばれていた地域名の『倭(わ)』には、あまり良くない意味が入ってる。それを『日の本 = 太陽の昇る国』に変えた。
推古天皇、厩戸王の時代はそれ以上のことがあったということ。国家の独立宣言です。
『聖徳太子』は独立した国を作った大功績の尊称。
聖徳太子登場以前の、今では天皇と呼ぶ人たちは、中国の天子(皇帝)から任命される王で、国名も倭(わ)と呼ばれてました。
倭の五王という言葉にもある通り、任命される王であると同時に中国軍の東方司令官に統治されるのが当時の日本。
完全な中国の属国。
倭の五王(わのごおう)
中国の『宋書』に書かれた日本の5人の王のこと。
5世紀のおよそ100年間、日本が中国に貢ぎ物をして、その見返りに王の称号をもらっていた。
それが5人の天皇だったといわれている。(確定していない。)
また、中国の将軍にも任命されていた。
宋書の王 | 与えられた将軍 | 天皇 |
---|---|---|
倭国王・讃 (さん) | ??? | 第16代 仁徳天皇 |
倭国王・珍 (ちん) | 安東将軍 | 第18代 反正天皇 |
倭国王・済 (せい) | 安東将軍 | 第19代 允恭天皇 |
倭国王・興 (こう) | 安東将軍 | 第20代 安康天皇 |
倭国王・武 (ぶ) | 安東大将軍 ↓ 鎮東大将軍 ↓ 征東大将軍? | 第21代 雄略天皇 |
ランク | 将軍 | ランクイメージ |
---|---|---|
1 | 車騎将軍 | 皇帝直属の将軍。 中国軍本体。 戦車・騎馬隊? |
2 | 征東大将軍 | 東部方面司令の大将 |
3 | 鎮東大将軍 | 東部方面司令の中将 |
4 | 安東大将軍 | 東部方面司令の少将 |
5 | 征東将軍 | 東部方面司令の大佐 |
6 | 鎮東将軍 | 東部方面司令の中佐 |
7 | 安東将軍 | 東部方面司令の少佐 |
※ 中国からみた東国を担当する将軍。
※ 『東を征服する』『東を鎮圧する』『東を安定させる』の順にランク付け。
これが日本と中国の本格的な外交のはじまりで、将軍は中国皇帝の部下なので中国の属国になる。安東将軍はランクが低い。
(日本は朝鮮王より低いランクから始まった。それからランクアップしていく。最終的に朝鮮に並んだとかいないとか。このへんは微妙。)
天皇のまわりの豪族たちにも欲しいと日本から要求したので、称号は天皇以外ももらっていた。
九州などの豪族たちも、ヤマトを無視して称号をもらっていたとされる。
損をしているように見えるが、中国の世界最先端の技術・文明が日本に入ってきた。
このとき、母系社会の日本に男尊女卑・男系思想が入ってきたと言われる。
当時の中国は南北朝時代で、日本は南朝の宋(劉宋)と国交を結んでいた。
(北朝はすぐに東西に分裂し南朝よりも不安定だった。)
それを、日本で初めて『倭の大王は天子(天皇)ですよ? その方は中国皇帝と対等ですよ?』と言って、大国・中国にケンカを売っちゃったのが厩戸王。
聖徳太子と呼ぶのは独立を勝ち取ったから。今でも、海外の日本大使館・領事館には、天皇陛下の肖像とともに聖徳太子の肖像も飾っています。
厩戸王を聖徳太子と呼ぶのは日本の独立を意味しています。今の歴史の教科書はこの意味を小さくして何がしたいんだろうか?
空海は弘法大師と呼ばれるなど、偉大な人は尊称がある。
たしかに尊称が名前を超えて一般通称として広まってるのは聖徳太子くらいしかいない。
そこに整合性がないというのには理解できるが、個人的には尊称が一般通称になっている意味(日本の独立)を大事にしたほうがいいと思う。
評価されるのに時間がかかった?
推古天皇と聖徳太子の独立宣言は、中国に対する宣戦布告のようなものでした。じっさい、随の皇帝の煬帝は『軍隊を派遣して叩き潰してやる』とまで言っています。
当時は何やってくれてんだ? だったでしょう。あのころの中国は、世界最強、最文明国で日本が勝てる見込みなんて微塵もない。
パラオ共和国がアメリカに戦争をしかけるようなもの。
100年以上も経って再評価された理由はこれなんじゃないかと思います。聖徳太子が再評価された時代は、律令のオリジナル修正が多く行われて国作りが進んでいました。
(その証拠に奈良時代は人工が激増している。)
律令(りつりょう)
律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。
7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。
日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。
律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。
独立国家の自信に満ち溢れていたでしょう。そこで、『あのとき無謀に見えた厩戸がいなかったら今はなかったよね?』になったのではないでしょうか。
(じつは無謀でなく、きちんと計算して勝算をもっていた。失敗したら滅びてたけど。)
厩戸は王じゃないといけないの? 皇子はダメなんだろうか?
もうひとつ気になるのは厩戸王(うまやと の おう)じゃないといけないのかということ。厩戸皇子(うまやと の みこ)じゃダメなのか?
細かいことですが王は皇子よりランクが下がります。皇子は天皇の近い家族や親戚で使われ、王は皇族だけど現天皇からは遠い親戚に使われるもの。
(ほぼ民間人でも皇族の血統というだけで王と呼ばれたりした。それくらい王と皇子はちがう。)
厩戸は摂政だったときの天皇(推古天皇)の甥っ子で、2代前の第31代 用明天皇の息子。皇子のほうがふさわしい。
(推古天皇の前の3人の天皇は厩戸の父と叔父2人。その前の欽明天皇は厩戸のお祖父ちゃん。)
なのに、昨今の教科書の変更では聖徳太子か厩戸王かは聞こえてくるけど厩戸皇子は蚊帳の外に見える。
このへんはどう考えられてるんですかね?
日本で律令政治が完成すると、皇子は親王(しんのう)という言い方に変わる。
その境目は第40代 天武天皇の息子たち。
草壁皇子(くさかべ の みこ)と刑部親王(おさかべしんのう)は兄弟なのに、草壁親王とは言わない。
刑部親王は忍壁皇子(おさかべ の みこ)とも呼ばれる。
草壁は大宝律令施行前に亡くなり、忍壁は施行後の国家運営の中心にいたから。
律令(りつりょう)
律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。
7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。
日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。
律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。
親王・内親王(ないしんのう)と王・女王は今でも続いて使われる。
(内親王はかつて皇女といわれ皇子と同じ『みこ』と読む。)
今でも皇子・皇女は使うが人名にくっつけては使わない。
愛子内親王 | ◯ |
愛子皇女 | ✕ |
愛子さまは皇女 | ◯ |
悠仁親王 | ◯ |
悠仁皇子 | ✕ |
悠仁さまは皇子 | ◯ |
今では皇子・皇女を『みこ』とは言わない。『おうじ・こうじょ』という。
王と書いて『みこ』と読む本はあるが...
書籍などでは王に『みこ』『おおきみ』とルビが振られているものがあります。『おう』と読まないものは天皇の息子が多い。
聖徳太子の時代は『皇子』という言葉がないのかもしれないですが、にしても『おう』はどうなんだろう?
聖徳太子のことが分かる一番古い歴史書は古事記・日本書紀です。そこでは『おおきみ』が使われている。
千年以上使ってたものを格下げしていいという根拠は出てるんでしょうか?
『おおきみ』は一般的に『大王』と書く。確実に王より格上。
聖徳太子から100年後の人々が天皇くらいの格と表現しているのを、現代の人が古すぎて分からないから変えていいなんてそれこそいい加減。
それを言い始めたら歴代天皇の最初の30人は、はっきりとしたことは分かっていません。実在すら怪しい人も多い。
はっきりしないことは、その後で一番近い時代の人たちの考えを採用する以外ないと思います。明確に大したことない王だったという新資料が出てくれば別ですが。
厩戸が載っている歴史書は少ない。
聖徳太子の時代の歴史書は現存しません。一番古いもので100年後に完成した古事記からで、厩戸が登場するのもそんなに多くない。
何代もの天皇の歴史が書かれた長編ものだから。
聖徳太子の名前 | |
---|---|
古事記 (712年完成) 国家の歴史書 | 上宮之厩戸豊聡耳命 (かみつみやのうまやと の とよとみみ の みこと) |
日本書紀 (720年完成) 国家の歴史書 | 用明天皇紀では、 豊聡耳聖徳 (とよとみみ の しょうとく) 豊聡耳法大王 (とよとみみ の のりのおおきみ) 推古天皇紀では、 厩戸豊聡耳皇子尊。 (うまやとの とよとみみ の みこ の みこと) |
懐風藻 (かいふうそう) (751年完成) 漢詩集 | 聖徳太子 |
古事記と日本書紀(こじき。にほんしょき)
第40代 天武天皇が号令をかけて作った国家の歴史書。ふたつあわせて記紀(きき)いう。
それ以前の歴史書は、焼失や理由の分からない消失でいまは存在しない。
天武天皇の息子・川島皇子(かわしま の みこ)、忍壁皇子(おさかべ の みこ)が編集長になり作業をはじめた。
そのときにまとめたのが帝紀と旧辞と言われる。
帝紀と旧辞
帝紀 (ていき) | 天皇の系譜、功績をまとめたもの。 |
旧辞 (きゅうじ) | 各氏族の系譜をまとめたもの。 氏族や民など、いろいろな人々に伝わる伝承をまとめた。 日本書紀に出てくる『上古諸事』は旧辞を指すとも。 |
帝紀と旧辞は一体だったとも言われはっきりせず、ふたつとも現存しない。
当時、重要な情報は覚えて口伝えする職業(誦習者。しょうしゅうしゃ)があり、稗田阿礼(ひえだ の あれい)が帝紀・旧辞を覚えた。
帝紀と旧辞が古事記と日本書紀の基本資料になり、飛鳥時代以前の歴史は、古事記、日本書紀にたよる。
古事記(こじき。ふことふみ)
帝紀・旧辞を稗田阿礼に誦習させたが、天武天皇が亡くなると作業が中断した。
712年(和銅5)、第43代 元明天皇のとき、太安万侶(おお の やすまろ)が阿礼の記憶、帝紀・旧辞から文字起こしして書物にまとめたのが古事記。
20年以上の中断があり完成に30年以上かかった。
(阿礼は、帝紀・旧辞だけでなく、無くなっていた数々の歴史書も覚えていた暗記の天才と言われる。)
日本書紀(にほんしょき)
完成は古事記よりもおそく、720年(養老4)、第44代 元正天皇のころに完成。
中断していたのか?たんに時間がかかったのか? 完成までの経緯はよく分かっていない。
天武天皇の息子・舎人皇子(とねり の みこ)が編集長。
古事記 | 倭語を漢字にあてた。 『夜露死苦』(よろしく)みたいに。 国内向け。 国家統一に利用するためか? |
日本書紀 | 漢字で書かれた。 (中国人でも読める。) 国外向け。 世界に日本をアピールするために利用か? |
出てきた名前を見てると、父が天皇のときは聖徳や法大王で摂政になると皇子になっています(尊も付いてる)。
そりゃそうだ、出世してるんだから。
それなら、なんで厩戸皇子ではなく厩戸王じゃないといけないのか? どうしてわざわざ出世する前を使うのか?
ふつう、皇子と呼ばれた人をあえて王と読むことはありません。
なんか、皇子と王の区別なんてだれも気づかないだろうと、ランクを下げて王と呼びたい人の思いがねじ込まれた感じがする。
ちなみに、最初に聖徳太子が出てくるのは古事記からさらに30年後で、歴史書ではなくポエム集の懐風藻です。
(だから聖徳太子は厩戸なのか? という人もいる。)
納得しない理由は、日本人の名前は出世すると変わるから。
豊臣秀吉のことを木下藤吉郎にこだわる人はいないし、上杉謙信を長尾景虎にこだわる人もいない。
武田信玄でも武田晴信にこだわらない。
(正確には王や皇子、太子は名前でなく立場の名称だが。)
厩戸王にこだわるって何が目的なんでしょう?
一般的に歴史上の人物は、一番偉いときの名前で後世の人は呼ぶ。
テストで厩戸皇子と答えたらバツなんだろうか?
正確に言いたいから聖徳太子をやめるというわりには適当な感じがします。
自分に小中学生の子どもがいたら、教科書には厩戸王と書いてあるのに、テストで厩戸皇子(または『うまやとのみこ』)と回答させて先生がどうするのか見てみたい。
結構、バツになることあるんじゃないかな?
よく話題になるじゃないですか? 教えたこととちがうからと言って正解がバツになるってことが。
もし自分の子どもがバツにされた解答用紙を見せてきたら言い聞かせます。
学者が書いた本でも厩戸皇子になってるものはいくらでもある。
お前の答えでも正解だ。
バツをつける先生は人を採点できるほど勉強もしてないし、その資格もない。
アホだ!
これ、モンスターペアレントですかね?
ぼくはその先生がモンスターだと思うけど。感受性が強い子どもにまちがった強烈なショックを与えた罪の大きさから言えば、ラスボス級のモンスターだと思う。
(世の中、間違ったことを平気で押し付けてくる人がいるという教育にはなるが。勉強しないだけに訂正もない。)
聖徳太子のイメージは間違ってるかもしれない
聖徳太子をイメージする人は100%この肖像だと思うんですが、今では疑問視されています。
聖徳太子を描いた最古の肖像画とされる唐本御影(とうほんみえい)は、100年後の8世紀(奈良時代)に書かれたと言われます。
(古事記や日本書紀が完成したころ、『聖徳太子』が初めて出てきたころと同じ。)
冠と笏(しゃく。手に持ってる細長い板)が飛鳥時代のものじゃない、画風が中国だとかいろいろツッコまれてるんですが、誰が何のために誰を書いたのかがはっきりしない。
今は『伝・厩戸王(聖徳太子)の肖像画』『厩戸王(聖徳太子)と伝わる肖像画』と表現されます。
これはしょうがないですよね? 聖徳太子の時代は文書ですらほとんど残ってないんだから。
再評価したのはいいけれど、あまりに記録がないもんだから書かせたんでしょうね?
より良いものをと外国人画家に頼んだんじゃないか?