歴代天皇 - 内外の権力闘争に明け暮れた天皇たち(院政) -
後白河天皇(ごしらかわ)は、朝廷内での評価が最低でした。しかし、本人はどこ吹く風でどんどん大政治家へと成長します。
平清盛、源頼朝とわたり合い、武家を利用しながら、されながら、30年以上トップでありつづけました。
皇族同士、武士との権力闘争を生き抜き、歴代天皇の中でも激動の政治の中心にいた人です。
中世 平安時代 - 末期 -
- 皇居
平安宮
(へいあんのみや)
- 生没年
- 1127年9月11日 ~ 1192年3月13日
大治2 ~ 建久3
66才
- 在位
- 1155年7月24日 ~ 1158年8月11日
久寿2 ~ 保元3
4年
- 名前
- 雅仁
(まさひと)
- 別名
行真法皇
(ぎょうしん)
- 父
第74代 鳥羽天皇
(とば)
- 母
藤原璋子
(ふじわら しょうし)待賢門院
(たいけんもんいん)藤原公実の娘
(ふじわら きんざね)
- 皇后
藤原忻子
(ふじわら きんし)藤原公能の娘
(ふじわら きんよし)
- 女御
平滋子
(たいら の しげこ)建春門院
(けんしゅんもんいん)平時信の娘
(たいら の ときのぶ)
- 女御
藤原懿子
(ふじわら いし/よしこ)藤原経実の娘
(ふじわら つねざね)
- 女御
藤原琮子
(ふじわら むねこ)藤原公教の娘
(ふじわら きんのり)
- 妻
その他
最低の評価を受けていた雅仁親王
父・鳥羽上皇と兄・崇徳上皇は、戦争になるくらい仲の悪い親子でしたが、弟・雅仁親王(まさひと。のちの後白河天皇)に対しては同じ評価だったようです。
即位の器量にあらず。
文にも武にもあらず、能もなく芸もなし。
ボロクソでした。
偉大な人は若いころ、最低の評価を受けるのは意外と多いです。織田信長もそうですし、海外ではエジソンもそうでした。
雅仁親王は奔放な性格で、空気を読まないところがあったようです。この性格は、京の都の型にはまった閉鎖的な世界からはぶっ飛んだヤバい奴に見えたのかもしれません。
- 後白河天皇は最低の評価だった。
- 自由奔放な性格のため京の都の世界とは合わなかった。
太上天皇(だいじょうてんのう)
退位した天皇のこと。
上皇(じょうこう)
太上天皇の短縮した言い方。
太上法皇(だいじょうほうおう)
出家した上皇のこと。たんに法皇という。
院(いん)
上皇の住まい。そこから上皇・法皇のことを『○○院』と呼ぶ。
くわしくは『太上天皇とは何か?』へ
『能もなく芸もなし』で早々と後継者から外される
兄の崇徳上皇が天皇のとき、父・鳥羽上皇が後継者に指名したのは、崇徳天皇・雅仁親王兄弟の弟で生後3か月の、雅仁親王とは12才もはなれた近衛天皇でした。
生後数か月の弟にすら負け、雅仁親王の息子(のちの二条天皇)は、皇族からはなれ寺に入れられちゃいます。
雅仁親王は本人だけでなく、一族もろとも干されました。どんだけ嫌われてたんだ?って話です。
鳥羽上皇の個人的感情もあったでしょう。雅仁親王の母・璋子(しょうし)は、崇徳上皇の出生について、鳥羽上皇との間に因縁があります。じっさいに璋子は、鳥羽上皇から遠ざけられました。
近衛天皇の母・得子(とくし)は、鳥羽上皇のいちばんお気に入りの皇后です。
最低の評価は男のジェラシー?
ぼくはこの評価、雅仁親王のとてつもない能力に嫉妬し、恐れたんじゃないかと思います。
天皇になった雅仁親王(後白河天皇)は、平清盛(たいらの きよもり)、源頼朝(みなもとの よりとも)と壮絶な政治闘争をくり広げます。
とくに鳥羽上皇は、コンプレックスの元凶、白河法皇を思い出したのではないでしょうか。そういえば名前も”後(ご)”・”白河”だし。
後白河は諡(おくりな)で、後世の人間がつけたものです。あのモンスター、白河法皇に匹敵する人物だと見ていた証拠でしょう。
後白河天皇の本当の評価はこれで伝わるのではないでしょうか?
ちなみに天皇の名前には、元々いた天皇の名前の前に ”後(ご)”をつけた天皇がたくさんいます。
後のついた天皇は、あの天皇を尊敬していた、憧れていた、あの天皇と似ているとか、なにかしら所縁のある人につけられています。
中には、新しいのを考えるのが面倒だから『後』を付けちゃえ感のある人もいる。
とくに鎌倉以降は、かつての〇〇天皇の次は✕✕天皇で、後〇〇だったから次は後✕✕みたいに、オートマチックに付けたものが続いたりする。
このころはすでに政治は完全に幕府に力があり朝廷は政治から離れている。どうやら頭を使うのを止めたらしい。
あまり期待されずに即位する
先代の近衛天皇が亡くなったとき、次は雅仁親王の息子・守仁親王(のちの二条天皇)をという声が上がりました。
資質に問題がある父の雅仁親王とちがって、守仁親王はデキると言われていたから。
ただ、守仁親王は寺に入れられて皇族からはなれたり、12才で幼かったり、また父を飛び越えて即位するのはおかしいということで、雅仁親王が即位します。
後白河天皇は29才でした。
後白河天皇の即位には、鳥羽法皇、近衛天皇の母・美福門院 得子、関白・藤原忠通(ふじわら ただみち)のあと押しがありました。
彼らが期待したのは、崇徳上皇を抑え込むことと、本命の守仁親王が即位するまでとりあえず中継ぎをしてもらうことでした。
後白河天皇の即位は、次の二条天皇につなぐための中継ぎだった。
鳥羽法皇は苦渋の選択だった?
後白河天皇の即位には鳥羽法皇の苦渋の選択があったと思われます。
- 崇徳と後白河、どっちも選びたくなかった。
- 崇徳上皇だけはダメだという、鳥羽法皇の人生観とも言っていい太い信念がある。
- 後白河天皇は資質に問題があると評価していた。
- 唯一該当する守仁親王は寺に入れられていたため、親王でなく皇族ですらなかった。
- 崇徳上皇の巻き返しが予想されたため、幼い守仁親王ではムリだった。
こうなっていくると、資質に問題のある雅仁親王以外いません。
前にも言いましたが、ぼくはこの後白河天皇の『資質の問題』には疑問があります。当人の資質の問題で、その息子を親王から外して寺に入れるでしょうか?
天皇の在位17年、上皇になって院政をはじめてから34年ものあいだトップにいつづけた鳥羽法皇は、雅仁親王の能力は自分を脅かす存在として感じていたと思います。
だから、芽が若いうちに摘むんだと。雅仁親王がまわりの賛同を得られなかったのも、藤原氏からすれば摂関政治の復権のためにはジャマだったからでしょう。
崇徳上皇は復権を狙っていたので、雅仁親王に即位されると自分の野望が終わってしまう。
鳥羽と崇徳は犬猿の仲だが、互いの思惑で雅仁親王への評価が同じになった。
女帝の可能性すらあった
鳥羽法皇は、大嫌いな崇徳、ポンコツだと思っていた後白河によっぽどしたくなかったのでしょう。
近衛天皇の姉・暲子内親王(しょうし)の即位案すらありました。
けっきょく女帝は誕生しませんでしたが、暲子内親王は次の二条天皇の准母(母親代わり)になったり、平氏討伐の挙兵をした以仁王(もちひとおう)とその子どもたちを育てます。
(それ以外の皇子や皇女の教育をした。)
生涯独身でしたが、皇后になったことがないのに女院(にょいん)にもなり、八条院(はちじょういん)と呼ばれます。
(女性の〇〇院は皇后を経験していないとなれない。)
即位に盟約があった?
これはぼくの勝手な解釈ですが、鳥羽法皇と後白河天皇のあいだに盟約があったのではないかと思います。
後白河天皇の復権と息子の皇族復帰を保証する代わりに、崇徳上皇の巻き返しを抑え込むという取引。
こういうのは文書に残さないので証明は不可能ですが、あとの流れを見ると結構あるんじゃないかと思います。
後白河天皇の即位は無理やりねじ込んだ感があるのもその証拠。
後白河天皇の即位はかなり強引?
鳥羽法皇の選択は危険です。当時は天皇の息子たちを民間人にするのは普通でした。
(政治家(貴族)・仏僧など、天皇の子孫は数えられないほど多い。)
息子とはいえ、民間人にするつもりだった人を戻すと混乱を招きます。『じゃあ、オレも戻してくれよ!』という声が出る。
平氏や源氏も天皇の子孫なので彼らにも示しがつきません。彼らがオレにもっと高い地位をくれ、何なら天皇にだってなれると言ったらどうしようとしていたのでしょうか?
そこまで崇徳上皇が嫌いだったということか。
保元の乱勃発、武家の地位の劇的な向上
後白河天皇の即位の翌年(1156年)、鳥羽法皇が亡くなった翌日、崇徳上皇がクーデターを起こします。
保元の乱です。
武家政治の主人公になる平清盛、源義朝・頼朝は天皇派でした。結果は天皇派の圧勝で、崇徳上皇は讃岐へ流されました。
後白河天皇はここから武家の力を頼るようになります。
本格的な後白河天皇の時代の始まり
対抗する人がいなくなり一人勝ち状態の後白河天皇は、保元の乱で功績のあった藤原通憲(ふじわら みちのり。信西入道)に政治をまかせます。
信西は荘園を整理し朝廷の改革を進めたので、おいしい思いができなくなった貴族は不満でした。
それでも信西は改革の手をゆるめませんでした。武家勢力の力を背景に天皇親政を目指していたから。
この信西があとあと、後白河天皇派の内紛を生む中心人物になります。
後白河天皇は即位から4年目、はやくも守仁親王(二条天皇)に皇位を譲り上皇になります。ここから後白河上皇の院政がはじまりました。
荘園(しょうえん)
743年に私有地を持てる法律ができたことから始まる、上皇・貴族・寺社勢力・豪族の私有地のこと。
農園と言われるが鉄の生産など工業も行われた。
室町時代くらいから武士などの地方の有力者に奪われ失われていく。
豊臣秀吉の太閤検地などの土地制度改革で、私有地はいったん国に返すことになったので消滅する。
朝廷内の対立の激化
藤原信頼(ふじわら のぶより)は信西と同じで、後白河天皇から政治をまかされた人ですが、信西に不満で徐々に対立します。
信西は、すべての権力を自分のものにしていると見られていました。また、二条天皇の側近、藤原経宗(ふじわら つねむね)、藤原惟方(ふじわら これかた)とも対立します。
二条天皇の側近は、
と批判しはじめます。このことで二条天皇と後白河上皇の親子関係もぎくしゃくしました。
- 後白河上皇の部下同士の対立(信西と藤原信頼)
- 上皇と天皇の対立(二条天皇派の上皇批判)
朝廷内の対立が武家にも波及
藤原信頼に味方する武士も出てきます。源義朝(みなもと の よしとも。頼朝、義経の父)も加わりました。
義朝はなぜ信頼に味方したのでしょうか?
信西は平清盛(たいら の きよもり)と親戚関係で、清盛をひいきして、ほかの武士を排除していたから。この清盛びいきがほかの武士には不満でした。
このときは政治勢力の対立は拮抗していて、どちらが優勢とは言えません。
清盛は信頼とも親戚関係で、親信西、反信西と距離を置き、また上皇派、天皇派とも距離を置いていました。有利な方にいつでも行けるようにしていたのでしょう。
三つ巴の状態でした。
パワーバランスが崩れ、再び戦になる
1159年、藤原信頼・源義朝が信西を倒すべく挙兵します。平治の乱です。
後白河上皇(信西)派は一掃され信西は自害します。信頼は、後白河上皇と二条天皇の身柄を確保して軟禁しました。
(軟禁といってもそこまで無理やりじゃない。保護された面もある。)
しかし事態は急変します。今度は、信頼が二条天皇派に潰されます。
そのときの後白河上皇の行動がすごいです。
後白河上皇の行動は一貫しています。かんたんに言えば、
だれが勝つか、いち早く察知して迷わず行動し、その手段は選ばない。
だからこそ、政治勢力が摂関家 -> 上皇の院政 -> 武士と激しく変わる時代に長く生き抜いたのでしょう。
ただし、共感する人はほぼいないと思います。少なくとも英雄にはなりません。このあたりが歴史の評価が低い原因でしょうか?
戦に負けて権力闘争に勝つ
後白河上皇は、上皇派の内紛で信西が負けて勢力が半減し、二条天皇派に信頼がつぶされたので、自分の勢力はないはずです。
でも上皇は負けてません。ここがスゴイところ。
不思議ですね?『なんでこうなるの?』でしょう。
上皇はすでに信頼派を見捨てて中立を決め込み、気がついたら勝者の一員になっています。
さらにスゴイのはここから。
勢力がなくなっていた上皇は、二条天皇に味方していた平家に近づいて取り込みます。
二条天皇派・信頼追討軍の主力(平家)をごっそり奪ったんですね?
これで自分の勢力を復活させて二条天皇派を崩壊させます。こうして戦争に負けた上皇が最終的な勝者になりました。
平清盛からすれば、まだ17才の二条天皇と後白河上皇を比べたとき、上皇につくほうが利益になると考えたのでしょう。
- 平清盛を味方に引き入れる。
- 戦では二条天皇に敗れるのに、権力闘争では勝利する。
二条天皇、六条天皇を退位させる
1165年、二条天皇は病気を理由に退位します。後白河上皇はとくに反対しませんでした。
平治の乱で二条天皇派の中心人物は失脚していますが残党はいます。乱が終わったばかりなので、よけいな争いはさけたのでしょう。
二条天皇の息子、次の六条天皇は、満1才にもならないのに皇太子になり、その日のうちに即位しました。後白河上皇は承認します。二条天皇は同年に23才で亡くなりました。
後白河上皇は、二条天皇派の残党(その後六条天皇派)と争うより、じっくり自分の地盤を固めようと思ったのでしょう。
後白河天皇と平清盛はお互いに利用し、されることで、互いの権力基盤を固めていきます。六条天皇退位の1年前(1167年)、清盛は太政大臣になり、翌年出家しました。
太政官(だいじょうかん)
律令制のなかで政治を動かすトップの組織。いまでいう内閣みたいなもの。
四等官 | 官位 |
---|---|
長官 (かみ) | 太政大臣(令外官) 左大臣 右大臣 内大臣(大宝律令で廃止。令外官として復活) |
次官 (すけ) | 大納言 中納言(大宝律令で廃止。令外官として復活) 参議(令外官) |
判官 (じょう) | 少納言など |
主典 (さかん) | 省略 |
左大臣は総理大臣みたいなもの。行政の全責任を負う。
最初はなかったが、近江令で左大臣のさらに上の太政大臣ができた。
最初の太政大臣は大友皇子。
(その後、平清盛、豊臣秀吉など)
太政大臣は、よっぽどの人でないとなれないので空席もあった。
明治新政府で置かれた太政官は同じものではなく、似たものをつくって置いた。『だじょうかん』といい呼び方もちがう。
明治18年に内閣制度ができて消滅する。内閣制度はイギリスがモデルだが、いまでも名前で太政官が受け継がれている。
内閣の一員 -> 大臣(だいじん)
官僚組織 -> 長官(ちょうかん)、次官(じかん)
日本では大臣を『相』ともいう。呼び方が2つあるのは日本独自と輸入品の両方を使っているから。
首相 = 総理大臣
財務相 = 財務大臣
○○相 | イギリスの議院内閣制の閣僚の日本語訳 |
○○大臣 | 太政官の名残り。日本だけ。 |
政治ニュースでよく見るとわかる。外国の政治家には『大臣』といわず『相』といっている。
ちなみに、アメリカのような大統領制の『長官』は太政官の長官(かみ)とは関係ない。日本人に分かるようにあてはめただけ。
大臣は『天皇の臣下のリーダー(大)』という意味。天皇がいないと大臣は存在できない。天皇の『臣下=君主に仕える者』だから。
平清盛とのタッグが完成
ついに、平家で固めた後白河体制が完成しました。六条天皇は在位4年、5才で退位して上皇になります。そして、後白河上皇の息子、高倉天皇に譲位しました。
譲位(じょうい)
天皇が生前に退位して次の天皇を即位させること。退位した天皇は上皇になる。
第35代 皇極天皇が乙巳の変(いっしのへん)の責任をとって行なったことから始まる。
はじめは天皇の目の前で暗殺事件がおきるというアクシデントだった。
大宝律令で制度化され天皇の終わり方の常識になる。最初に制度化された譲位をしたのは第41代 持統天皇。
持統天皇から今上天皇まで80代の天皇のうち60代は譲位。
(制度化されてから2/3が譲位)
なかには亡くなっているのをかくして、譲位をしてから崩御を公表する『譲位したことにする』天皇もいた。
それだけ譲位が天皇の終わり方の『あたりまえ』だった。
譲位の理由はいろいろ。
次世代が育つ。 |
そのときの権力者の都合。 自分の娘を皇太子に嫁がせているので早く天皇にしたいとか。 (権力闘争に利用される) |
病気。 |
仏教徒になりたい。 |
幕府に抗議するため。 |
天皇の意思。 |
理由なし。 あたりまえだと思っていた。 |
高倉天皇は即位したとき8才でした。もちろん、後見人は父・後白河上皇です。
上皇からすれば、自分の孫を退位させ息子を天皇にすることで、二条天皇派を抑え込みながら自分の院政を強化しました。
また、高倉天皇の母は平清盛の妻の妹・平滋子(たいら の しげこ)です。清盛も後見人といっていい立場になりました。
- 高倉天皇の即位で、二条天皇派との内紛に勝利する。
- 後白河・平家体制の完成。
これで平和になると思うところですが、長くはつづきませんでした。今度は、絶頂期の後白河法皇と平清盛の2人が対立していきます。
つづく。