天皇がリーダーシップを取る政治には天皇親政(てんのうしんせい)と皇親政治(こうしんせいじ)があります。
二つのちがいは時代、システムもありますが、いちばん特長的なのは天皇を支えた人がちがう。
皇親政治のほうが天皇も含め皇族に政治力が求められていました。
天皇親政と皇親政治のちがいで、時代やシステムだけで見てはいけません。もうひとつ大きな特長があります。
それは天皇を支えた人はだれか?
『そのときの権力者はどういう人か?』に置き換えてもいいです。
皇親政治はガチガチのファミリー企業
皇親政治は律令政治の始まりと同時に登場します。
律令(りつりょう)
律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。
7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。
日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。
律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。
律令政治は官僚政治で、政権中枢、その下に置かれる各省庁、その下に置かれる各種役所のそれぞれに人を配置していって政治を行います。
第40代 天武天皇のときに本格的に形作られ、天武天皇の皇后・持統上皇が完成させました。
左大臣・右大臣・大納言や太政大臣はだれでも聞いたことがある役職ですが、これが律令政治の政権中枢の役職です。
律令政治の前身は第33代 推古天皇・聖徳太子の政治で、左右大臣などの太政官は第36代 孝徳天皇のときに設置されました。
太政大臣は第38代 天智天皇のころに大友皇子(おおとも の みこ。弘文天皇)が初めて就任します。
律令政治 = 皇親政治は日本のオリジナル
日本が中国から律令政治を取り込んだころ、皇親政治ではありませんでした。コピー元の中国と同じように、太政官の臣下たちも蘇我氏などの有力豪族です。
(中国の臣下は登用試験に受かり仕事で出世した優秀な官僚で皇帝の子孫ではない。)
律令政治を皇親政治にしたのは第40代 天武天皇。本格的な律令国家を作った人です。
律令国家を作ろうとし始めた日本は、臣下たちの暗闘で何人もの皇子たちが亡くなりました。天武天皇は本家の律令政治では、臣下のさじ加減で権力が変わっていくのを恐れたのでしょう。
(中国は皇帝のそばにいる臣下に国が左右されていた。)
ただ皇親政治になったからといって皇子たちの殺し合い、臣下の権力闘争は収まりませんでしたが。
政権中枢、省庁事務次官が皇族
皇親政治の特長は役所の中に皇族がたくさん入っていること。皇太子が摂政になって政権のリーダーになり、そのほかの閣僚も皇子たちばかり。
若い皇子は修行のため各省庁の幹部クラスからスタートします。
天皇は皇太子がすすめる政治を見守る役割。律令政治を完成させたころには退位した天皇 = 上皇も規定されました。
天皇の息子たちが行う政治を天皇・上皇が見守りながら、ここぞというときにビシッと締めるのが皇親政治です。
太政大臣は皇太子に匹敵
皇親政治では、皇太子が決められないときや若すぎるときには太政大臣を置きました。当時の太政大臣は皇太子に匹敵する皇子ランク。
皇族たちの中でトップランクで、政治家としても抜群のスーパーマンだけがなれました。
スーパーマンがいないときは、とりあえず政権のトップだけは置いとこうという知太政官事も作ります。
知太政官事(ちだいじょうかんじ)
第42代 文武天皇から第45代 聖武天皇の間に置かれた令外官。
律令政治の太政官を監督するマネージャー職。
(左大臣よりも上。)
有力な皇族が務めた。
だれが? | 就任時期 |
---|---|
忍壁皇子 (おさかべ の みこ) 天武天皇の子。 | 703年(大宝3)~ 705年(大宝5)。 第42代 文武天皇 |
穂積皇子 (ほずみ の みこ) 天武天皇の子。 | 705年(大宝5)~ 715年(和銅8)。 第42代 文武天皇 第43代 元明天皇 |
舎人皇子 (とねり の みこ) 天武天皇の子。 | 720年(養老4)~ 735年(天平7)。 第44代 元正天皇 第45代 聖武天皇 |
鈴鹿王 (すずか の おおきみ) 高市皇子の次男。 天武天皇の孫。 | 737年(天平9)~ 745年(天平17)。 第45代 聖武天皇 |
このときすでに太政大臣があったが、前例の大友皇子(おおとも の みこ)、高市皇子(たけち の みこ)のように、皇太子に匹敵する人でないとなれなかった。
太政大臣を置くと皇太子と並び立つので、皇位継承争いを避けるため知太政官事を置いたとも言われる。
じっさい、知太政官事がいたときの太政大臣は不在。
(その後、太政大臣は皇族でなくてもなれるようになる。)
結局、歴代知太政官事は第40代 天武天皇の子が務めた。
(最後の鈴鹿王だけ孫。)
本格的な律令政治を始めた天武天皇の威光があるうちだけの役職だったとも言える。
(天武天皇は皇親政治を始めた人でもある。)
当時の皇太子は政治のトップも求められたので、若い頃は省庁や政権中枢での修行が必要で時間もかかった。
その修行期間の穴を埋めたのが、太政大臣と知太政官事。
じっさいの当時の皇太子は修行する以前に幼かったので、よけいに必要だったのが現実。
女帝ばかりが即位した理由も同じ。男の皇族だけでは幼子を支えられなかった。
皇親政治の弱点は家族ケンカ = 権力闘争
皇親政治は皇族が政治の中枢にいるので、『権力闘争 = 家族同士のケンカ = 皇位継承争い』になります。
官僚や政治家になった皇子たちは早く出世して太政大臣になりたいから。そしてあわよくば、その先には天皇になる道が開かれる。
じっさい、皇親政治は皇子たちの殺し合いも多く皇族は殺伐としていました。これが皇親政治を衰退させる原因になります。
当時でも皇太子は早めに決めていましたが、何があるか分かりません。皇子たちはその小さな可能性にかけていました。
皇子たちが不足する
皇族には親王と王があります。(女性は内親王と女王)
当時の親王は天皇の子どものことで、孫からは王でした。
(いまは孫までが親王、ひ孫から王。)
皇親政治の最初は、天武天皇と天智天皇の皇子たちがたくさんいたので、官僚・政治家に送り込めました。
しかし、時代が経ってくると親王では足りず、王が政権中枢に入るようになります。
左大臣にまでなった長屋王(ながやおう。ながや の おおきみ)とか。その王たちも権力闘争で殺し合いをするので、次期天皇の人材も不足しました。
奈良時代末期の第46代 孝謙天皇(第48代 称徳天皇)は女帝ですが生涯独身。皇位継承に悩み、皇親政治のメンバーが足りずの二重苦で皇親政治は衰退します。
知太政官事を置いたのは皇親政治が弱体化していたから。
皇親政治の太政大臣はけっきょく高市皇子(たけち の みこ)ただ一人。スーパーマンはそんなにいないということ。
そんなに出ることのないスーパーマンに頼ったのも皇親政治の弱点。
いまでも皇親政治と同じ政治システムを持っている国があります。サウジアラビアです。
サウジは、閣僚、省庁のトップが王族。
古代の日本はあんな感じでした。
皇親政治の終わりと藤原氏の台頭
皇親政治のメンバー不足を解消したのは藤原氏です。藤原氏は大化の改新の立役者・藤原鎌足(ふじわら の かまたり)の子孫で、皇親政治の皇族を支える重要な氏族でした。
皇族たちが不足してくると同時に、それを支える藤原氏の力は大きくなっていきます。
平安時代に最強になる藤原氏の登場です。
奈良時代末期の第45代 聖武天皇が転換点で、実質のトップ・左大臣が王(長屋王) -> 不在 -> 天皇の子孫の氏族(橘諸兄(たちばな の もろえ))とコロコロ政権が変わり、皇族から政治が離れていきます。
そのすぐ下には藤原氏がウヨウヨ。
次の第46代 孝謙天皇では藤原仲麻呂(ふじわら なかまろ。恵美押勝(えみのおしかつ))が大納言のまま政権トップになりました。
(その上の左右大臣、知太政官事は不在。)
知太政官事(ちだいじょうかんじ)
第42代 文武天皇から第45代 聖武天皇の間に置かれた令外官。
律令政治の太政官を監督するマネージャー職。
(左大臣よりも上。)
有力な皇族が務めた。
だれが? | 就任時期 |
---|---|
忍壁皇子 (おさかべ の みこ) 天武天皇の子。 | 703年(大宝3)~ 705年(大宝5)。 第42代 文武天皇 |
穂積皇子 (ほずみ の みこ) 天武天皇の子。 | 705年(大宝5)~ 715年(和銅8)。 第42代 文武天皇 第43代 元明天皇 |
舎人皇子 (とねり の みこ) 天武天皇の子。 | 720年(養老4)~ 735年(天平7)。 第44代 元正天皇 第45代 聖武天皇 |
鈴鹿王 (すずか の おおきみ) 高市皇子の次男。 天武天皇の孫。 | 737年(天平9)~ 745年(天平17)。 第45代 聖武天皇 |
このときすでに太政大臣があったが、前例の大友皇子(おおとも の みこ)、高市皇子(たけち の みこ)のように、皇太子に匹敵する人でないとなれなかった。
太政大臣を置くと皇太子と並び立つので、皇位継承争いを避けるため知太政官事を置いたとも言われる。
じっさい、知太政官事がいたときの太政大臣は不在。
(その後、太政大臣は皇族でなくてもなれるようになる。)
結局、歴代知太政官事は第40代 天武天皇の子が務めた。
(最後の鈴鹿王だけ孫。)
本格的な律令政治を始めた天武天皇の威光があるうちだけの役職だったとも言える。
(天武天皇は皇親政治を始めた人でもある。)
天皇親政はファミリー企業でも役員は外部
皇親政治が衰退して藤原氏が政治の中心になっていくころ、第50代 桓武天皇が平安京に遷都して平安時代が始まります。
平安時代の中期になるころには、皇親政治の衰退で長い間不在だった摂政・太政大臣を藤原氏がつとめるようになり、関白もできました。
摂関政治のはじまりです。
皇親政治の衰退で、平安時代になると皇族が務めるはずの摂政・太政大臣を藤原氏が務めるようになる。
平安時代は藤原一強じゃない
摂関政治がはじまり藤原氏一強に向かう中、逆を行く現象が起きます。天皇の子孫の氏族・平氏と源氏が大量生産されました。
天皇の子孫の源氏は、摂政・関白までなる人は少ないですが、政権トップの左大臣・右大臣になる人が多く出ています。
平安時代の藤原氏に唯一対抗できる勢力に成長にしました。
皇族が政治から離れていく中、『天皇は藤原氏のパシリでいいんじゃね?』と言い出しかねない藤原氏に危機感をもった皇族やその他の氏族の対抗手段です。
(じっさいにその後、パシリみたいになった。)
平安時代は藤原氏の時代と思う人は多いですが、実はそうじゃありません。
平安時代中期の藤原道長(ふじわら みちなが)が出てくるまで源氏は頑張っていました。藤原氏との二大巨塔と言っていいほど政治権力の中枢で活躍します。
皇族の代わりに源氏を置くのが精一杯
天皇親政は皇親政治のように、すべての権限を皇族に戻せませんでした。
皇族たちが政治から離れて時間が経っていたため、政治家としての能力が無くなってしまっていたから。数人ならできたでしょうが、政治家集団となるととても無理です。
平安時代の初期から中期に天皇の子孫の氏族・平氏や源氏を大量生産したのもその穴埋めのため。
だから天皇親政では、皇親政治の皇族の代わりに元皇族の源氏が天皇を支えました。
天皇親政もファミリー企業ですが、社長・会長以外、役員は外部の人間です。トヨタ自動車みたいなもの。
天皇親政は摂関政治をおしおきする説教政治
天皇親政は平安時代に結構な頻度でやってきました。
第50代 桓武天皇 | 平安時代の幕開け。 |
第59代 宇多天皇 | 寛永の治(かんえいのち) 元・源氏の天皇。 菅原道真が政権トップ |
第60代 醍醐天皇 | 延喜の治(えんぎのち) |
第62代 村上天皇 | 天暦の治(れんりゃくのち) |
第71代 後三条天皇 | 摂関政治をぶっ壊す。 院政の扉を開く。 |
平安時代の最初の桓武天皇では、まだ摂関政治が登場していません。平安京に移っても政治は律令政治です。
宇多天皇から村上天皇までは摂政・関白を置きませんでした。大人になってから即位したので摂政がいた経験がなく、本来なら関白になるはずの藤原氏長者の影響を受けていないから。
『オレには摂政もいなかったんだから関白もいらねー』ってこと。
平安時代の初期から中期は律令政治の面影が残っていました。摂関政治と律令政治のハイブリッドです。
律令政治が完全に消え摂関政治一色になるのは村上天皇のあと。
桓武天皇は直前の皇親政治の後継で、天皇親政よりも皇親政治色が強いんですが、皇親政治とは言わない。
かといって天皇親政とも言わない。
桓武天皇の政治はそのまま『桓武天皇の政治』。微妙。
平安時代の天皇がリーダーシップをとった政治を皇親政治とは言わないって決まってるのか? だれが決めた?
平安時代の有名な改革は天皇親政
藤原氏も政治を頑張っていましたが、どちらかというと貴族の権力闘争の色合いが強いです。
じっさい、平安時代の有名な改革、『〇〇の治』とつく改革はすべて天皇親政。摂関を中心に調子に乗りすぎた貴族をビシッと叱る改革です。
天皇親政には『違法荘園は許さねー!』『ルールはちゃんと守れ!』という特長があります。
摂関政治の不正を正して院政の扉を開いた後三条天皇の改革にもありました。
荘園(しょうえん)
743年に私有地を持てる法律ができたことから始まる、上皇・貴族・寺社勢力・豪族の私有地のこと。
農園と言われるが鉄の生産など工業も行われた。
室町時代くらいから武士などの地方の有力者に奪われ失われていく。
豊臣秀吉の太閤検地などの土地制度改革で、私有地はいったん国に返すことになったので消滅する。
そして、もうひとつの特長が。天皇の子孫・源氏など、非藤原氏の優秀な貴族を登用したこと。
菅原道真(すがわら の みちざね)もそのひとりです。
平安時代は藤原氏が調子に乗ると天皇親政になり、天皇親政が落ち着くと藤原氏が強くなりの揺り戻しの連続です。
藤原氏の調子乗りの最高潮・藤原道長(ふじわら みちなが)が出てきたのは、村上天皇と後三条天皇の間。
第50代 桓武天皇 | 平安時代の幕開け。 |
藤原良房(よしふさ)が摂政・太政大臣に なる。 | |
良房の息子・藤原基経(もとつね)が摂政 ・関白・太政大臣になる。 | |
第59代 宇多天皇 | 寛永の治(かんえいのち) 元・源氏の天皇。 菅原道真が政権トップ |
第60代 醍醐天皇 | 延喜の治(えんぎのち) |
基経の息子・藤原忠平(ただひら)が醍醐 天皇の延喜の治の中心人物だったことから 大出世。 摂関政治の常態化のベースを作る。 | |
第62代 村上天皇 | 天暦の治(れんりゃくのち) |
源氏の左大臣の失脚で、源氏がトップ貴族 から脱落。 藤原氏一強へ。 天皇をイジめる、皇太子をクビにするなど やりたい放題。 藤原道長の登場で調子乗りの絶頂。 | |
第71代 後三条天皇 | 摂関政治をぶっ壊す。 院政の扉を開く。 道長の子が最大実力者だったが、道長のや りたい放題の反動で早くも藤原氏のトーン ダウンが始まっていた。 |
明治維新も天皇親政
すぐに挫折しましたが、室町時代の第59代 後醍醐天皇も天皇親政でした。(建武の新政)
明治維新も天皇親政と見えなくもない。
どっちも敵は藤原氏ではなく幕府の武士で倒幕に成功します。
後醍醐天皇の天皇親政は、倒幕に参加した足利高氏(あしかが たかうじ)などの武士に裏切られて、室町幕府にとって変わりました。
明治維新は天皇親政ですが、近代化でもあったので天皇が直接政治をする体制はとれませんでした。
それでも明治新政府に対する明治天皇の存在感は、江戸時代の幕府に対する影響力と比べられないほど強大です。
政治のトップにいた貴族や武士には、完全に天皇をナメてた人はいくらでもいますが、歴代の総理大臣には表向き天皇に対して不遜な態度を取る人はほとんどいません。
今でも天皇親政の色は残っています。