日本の歴史では武士の時代が長かったので、上級な人たちと思われがちですが、本当は軍人のランクはけっして高いものではありませんでした。
軍人には朝廷の役職がいっぱいあるんですが、武士が生まれた平安時代を見ると、どうやって彼らが立場を上げていったのかが分かります。
古代・律令国家以前。軍人が一番上級だった。
日本の古代は律令制度の導入以前と以後で分かれます。古代とひとくくりにできないほど統治システムがちがう。
日本の最初の統治は大王(おおきみ。のちの天皇)が力をもった豪族を従えて直接統治しました。大王が軍の総司令官です。
ほぼ古墳時代と重なるんですが、このころ戦争のために遠征をした天皇も多くいます。都に帰れず戦地で死んだ天皇すらいました。
初代・神武天皇 | 宮崎の4代目王から天下統一して大和(やま と。奈良)に都を置く。 |
第12代 景行天皇 | ヤマトタケルの父。 各地を転戦したのはヤマトタケルだが、日本 書紀では景行天皇が九州遠征している。 |
第14代 仲哀天皇 | 熊襲退治のため九州遠征して戦地で亡くなる。 |
神功皇后 | 仲哀天皇の皇后。 夫に代わって軍の総司令官になる。 日本の最初の対外戦争、三韓征伐を行った。 |
第15代 応神天皇 | 仲哀天皇と神功皇后の間の子。 両親が遠征中の九州で生まれた。 |
第37代 斉明天皇 | 朝鮮の新羅討伐のために九州に出陣。 遠征先で亡くなる。 女帝。 |
第38代 天智天皇 | 皇太子として母・斉明天皇と一緒に出陣。 |
第39代 弘文天皇 | 壬申の乱で政府軍の大将として出陣。 負けて自害。 |
第40代 天武天皇 | 兄・天智天皇と同じく母・斉明天皇に付いて 出陣。 壬申の乱では反政府軍の大将。 勝って即位する。 |
壬申の乱(じんしんのらん)
天智天皇の弟・大海人皇子(おおあま の みこ)と息子・大友皇子(おおとも の みこ)のだれが天皇になるのかの争い。
古代最大の内乱。
両軍ともに皇位継承権のある皇族が大将になり指揮した戦で国を2分した。日本の歴史上、ここまで国を分けた戦いはない。
大海人皇子は皇太弟、大友皇子は太政大臣だった。
天智天皇は大海人皇子を指名したが、皇子が断って吉野(和歌山)に引っ込んだことが原因。
672年(天武元)7月24日、大海人皇子は、大友皇子に反乱の罪をきせられると思い、先手を打って挙兵、勝利して第40代 天武天皇になる。
どっちが裏切ったのか、正義があるのかは意見が分かれる。
古代の資料は日本書紀・古事記からだが、天武天皇が号令をかけて作られたので、大海人皇子に都合の悪いものは書けなかったともいわれる。
(ここに書いた内容も日本書紀から。)
大友皇子は、歴代天皇に入ってなかったが、明治3年、明治天皇が『弘文天皇』という諡をおくって歴代天皇に加わった。
いまは、どっちがよかった、悪かったという評価ができるほど事実が分かっていない。
国家として未熟だったので、リーダー自ら最前線まで行くのが多かった時代です。戦国時代の織田信長を見れば分かりやすい。
最初のころは先陣を切った信長も、後半は臣下の柴田勝家(しばた かついえ)、丹羽長秀(にわ ながひで)、明智光秀(あけち みつひで)、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)などにまかせて安土にいるようになります。
このころの軍人は最上級です。だって天皇が軍の総司令官だから。
古代・律令国家以後。天皇が総司令官をやめる。
律令制度は法治国家です。官僚国家と言ってもいい。これまで天皇のもとに集まった豪族たちを位階と役職でランク付けしました。
軍人はたんに強いだけOKじゃなくなります。
会社の中で一番仕事ができて会社の利益に貢献していても、職位(等級)が低くて平社員だったら発言力がないのと同じ。
律令制度では、近衛府(このえふ)という都の警護を担当する部署ができました。
律令国家での軍人のトップは近衛府の長官です。左近衛大将(さこんえ の だいしょう)と右近衛大将(うこんえ の だいしょう)。
ここで天皇は軍の総司令官になるのを止めました。というか律令制度とはそういうものです。リーダーは見守る人で、実際に政治をするのは役職を与えられた各省庁の役人。
政治をまとめる政権中枢ですら太政官というひとつの機関です。
太政官(だいじょうかん)
律令制のなかで政治を動かすトップの組織。いまでいう内閣みたいなもの。
四等官 | 官位 |
---|---|
長官 (かみ) | 太政大臣(令外官) 左大臣 右大臣 内大臣(大宝律令で廃止。令外官として復活) |
次官 (すけ) | 大納言 中納言(大宝律令で廃止。令外官として復活) 参議(令外官) |
判官 (じょう) | 少納言など |
主典 (さかん) | 省略 |
左大臣は総理大臣みたいなもの。行政の全責任を負う。
最初はなかったが、近江令で左大臣のさらに上の太政大臣ができた。
最初の太政大臣は大友皇子。
(その後、平清盛、豊臣秀吉など)
太政大臣は、よっぽどの人でないとなれないので空席もあった。
明治新政府で置かれた太政官は同じものではなく、似たものをつくって置いた。『だじょうかん』といい呼び方もちがう。
明治18年に内閣制度ができて消滅する。内閣制度はイギリスがモデルだが、いまでも名前で太政官が受け継がれている。
内閣の一員 -> 大臣(だいじん)
官僚組織 -> 長官(ちょうかん)、次官(じかん)
日本では大臣を『相』ともいう。呼び方が2つあるのは日本独自と輸入品の両方を使っているから。
首相 = 総理大臣
財務相 = 財務大臣
○○相 | イギリスの議院内閣制の閣僚の日本語訳 |
○○大臣 | 太政官の名残り。日本だけ。 |
政治ニュースでよく見るとわかる。外国の政治家には『大臣』といわず『相』といっている。
ちなみに、アメリカのような大統領制の『長官』は太政官の長官(かみ)とは関係ない。日本人に分かるようにあてはめただけ。
大臣は『天皇の臣下のリーダー(大)』という意味。天皇がいないと大臣は存在できない。天皇の『臣下=君主に仕える者』だから。
律令制度では軍人のランクは低い
軍人のトップの左近衛大将や右近衛大将は令外官で、律令制度の中枢、太政官の人が兼務するものでした。徐々に大納言や中納言が兼務するようになります。
(太政官は律令制度の内閣のようなもの。)
今の感覚で言うと、防衛大臣は別の大臣が兼務するのが決まりのあまり重要視されない感じ。律令制度では軍人のランクが決して高くない証拠です。
律令政治は軍が弱くなる政治
そもそも律令政治は軍事を大事にしない政治システムです。律令は中国の発明ですが、中国も律令政治になり官僚が政治を動かすようになると軍事が弱くなりました。
キングダムが描く春秋戦国時代、説明はいらないほど有名な三国志など、あれだけ大きな戦力で戦術を使って戦争をしていた国でさえ、統一されて律令政治になると軍事が弱くなりました。
弱くなると外敵から責められて、国が乗っ取られ皇帝が変わる易姓革命の繰り返し。
易姓革命(えきせいかくめい)
中国の皇帝が力を失い倒されて、新しい皇帝が立つこと。
中国の王朝交代。
易姓は『皇帝の姓が変わる』という意味。
中国では一族(姓)が大事で、中国を統治する一族が変わるところから来ている。
なんで繰り返すかというと、国を乗っ取った侵略者の皇帝が律令政治を採用して吸収されていくから。
侵略者が採用してしまうほど律令政治は大きな国家運営には最適な政治システムです。でも、あれだけ軍事でのし上がった人たちでさえ軍事を捨ててしまうのも律令政治です。
(日本では徳川幕府が近い。江戸時代の武士は武官から文官へ変わっていった。)
軍人のトップは出世するキャリアアップの名誉職になっていく
日本の律令制度でそこまで大事にされない軍人のトップは、太政官のキャリアアップの途中で経験する名誉職へなっていきます。
『軍人のトップをやっとかないと右大臣、左大臣にはなれないよ?』ということ。
この名誉職は江戸時代でもありました。
鎌倉時代の源頼朝(みなもと の よりとも)、
室町時代の足利義満(あしかが よしみつ)、
戦国時代の織田信長(おだ のぶなが)、
そして江戸幕府を開く徳川家康(とくがわ いえやす)も経験しています。
織田信長は古い慣習は大嫌いで『朝廷なんかしゃらくせー』というイメージですが、じつは軍人として堅実にキャリアを積んでます。
天下を治めるために。
近衛将軍に代わる軍人のトップ。鎮守府将軍。
律令政治は統一された国家運営には優秀なシステムですが、まだ日本は統一されているとは言えませんでした。
とくに東北は古代末期の奈良時代になっても、『なんでお前の言うことを聞かないといけないんだ?』と独立心旺盛な豪族たちがいます。
じっさいこのころ朝廷が大規模な討伐軍を送るのは東国が中心でした。
そこで置かれた組織が鎮守府(ちんじゅふ)。奈良時代の末期に東国のどこかに置かれ、のちに陸奥国(むつ。福島・宮城・岩手)に置かれるようになります。
そこの長官が鎮守府将軍。
鎮守府将軍は位階(朝廷の官僚の等級)が四位・五位の人がなり、近衛将軍の三位よりワンランク下。近衛将軍は軍人のキャリアじゃなくなったので、本物の軍人が目指すトップは鎮守府将軍になりました。
【国軍の放棄】国司と検非違使。ときどき征夷大将軍。
『おい! いつになったら武士のキャリアアップの話になるんだ?』と思うでしょうが、もう少し基本情報にお付き合いください。
これが最後です。国司と検非違使です。
国司(こくし)と郡司(ぐんじ)
国司
古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。
地方のすべての権限を持っていた。
京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)
送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏)
今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。
もってる力は絶大。
偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。
長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。
それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。
受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。
平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)
鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。
戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。
- 織田 上総介(かずさのすけ)信長
- 徳川 駿河守(するがのかみ)家康
織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。
織田信長が一番偉くないのが面白い。
郡司
市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。
大宝律令と養老律令
古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。
近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。
律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。
大宝律令(たいほうりつりょう)
701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。
中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。
第42代 文武天皇の時代。
(じっさいは持統上皇が行なった。)
大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。
養老律令(ようろうりつりょう)
718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。
大宝律令の改訂版。
突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。
養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)
撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。
天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。
養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。
養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良
撰定から施行まで40年もかかっている。
オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。
女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。
(大宝律令の持統上皇も女帝。)
(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)
国司に軍をもたせ国軍を放棄
国司は地方の役所・国府(こくふ)の役人で、地方のすべてを統括していました。いつ置かれたのかは定かでなく古代の飛鳥時代にはあったようです。
(律令国家以前の、聖徳太子以降の日本は、律令国家に向かって徐々にシステムを整備し始めていた。その段階で国司も置かれたよう。)
国司のターニングポイントは平安時代の最初の第50代 桓武天皇です。桓武天皇は天皇が総司令官にならないのをさらに進めて国軍をもつことをやめました。
軍団を各地の国司へ丸投げします。平安時代のスタートから日本の軍隊は国司の軍団長に任されるようになりました。
大戦の危機から検非違使創設
そのあと、桓武天皇の息子の平城上皇と嵯峨天皇の間で大戦寸前までなったので、嵯峨天皇が検非違使を作ります。
また、国司の軍団長だけだと大きな戦争に対応できないので、国司をまとめる征夷大将軍も作りました。この将軍は大きな戦争が起きるときだけ任命された臨時総司令官。
平安時代と鎌倉以降の大きな違いはここ。政権トップが軍隊をもっているかどうか。鎌倉以降は征夷大将軍が政権トップも兼ねます。
征夷大将軍の大きな変化が象徴的。
だからといって、軍隊をまるまる放棄したわけじゃない。
国司の長官はぎりぎり昇殿が許される殿上人になれたので、政権中枢から直接命令を受ける立場にいた。
征夷大将軍が登場する前、同じような将軍が奈良時代にあった。
これらも常設ではなく戦が起きたときに任命される臨時総司令官。
将軍 | 担当エリア |
---|---|
鎮西将軍 (征西将軍) | 九州方面。 |
征夷将軍 (征東将軍) | 太平洋側。 (東方) |
鎮狄将軍 (征狄将軍) | 日本海側。 (主に西方) |
そのほかいろいろ。
奈良時代に国内の反乱のほとんどを抑えたので、征夷将軍以外は自然消滅。
最終的に、国内の大乱を抑える将軍として残った征夷将軍が征夷大将軍になった。
検非違使以外にあった正式な官職
検非違使は令外官で、同じような仕事をする正式な官職は別にありました。衛門府(えもんふ)と兵衛府(ひょうえふ。)です。
(それぞれ左衛門府(さえもんふ)・右衛門府(うえもんふ)と左兵衛府(さひょうえふ)と右兵衛符(うひょうえふ)に分かれる。)
衛門府は門番のことで兵衛府は天皇や貴族の警護をするボディーガード。
衛(え)のつく役所を総称して六衛府(ろくえふ)と言います。
左近衛府 右近衛府 | 天皇・皇族や貴族のボディーガード。 最も位が高い。 名誉職。 |
左衛門府 右衛門府 | 門番。 衛士府(えじふ)と別個にあったが、 平安時代の初期に統合。 |
左兵衛府 右近衛府 | ボディーガードの実働部隊。 |
衛(え)は『守』という意味がある。
六衛府が定着する前は五衛府(ごえふ)と言います。
(近衛府がなく衛士府があった。)
左兵衛府 右兵衛府 | ボディーガード。 |
左衛士府 右衛士府 | 天皇直属の軍団。 |
衛門府 | 門番。 |
奈良時代にはすでに衛士府は縮小が始まり、逆に衛門府は拡大していた。平安時代に天皇が軍の総司令官をやめる動きは奈良時代に始まっていました。
(反乱が少なくなったので宮中警護でいいになった。)
五衛府・六衛府(ごえふ・ろくえふ)
『衛(まもる)』がついた律令制度の役所の総称。
宮中や皇族の護衛を中心とした軍事組織。
今でいうと宮内庁のSP。
大宝律令・養老律令では5つの役所だった。
衛門府 | えもんふ。 宮中の門番。 |
左衛士府 右衛士府 | さ(う)えじふ。 宮中、皇族のボディガード。 全国から衛士を集めて配置した。 身分によらない登用をしていた。 |
左兵衛府 右兵衛府 | さ(う)ひょうえふ。 宮中、皇族のボディーガード。 全国から兵衛を集めて配置した。 主に郡司など、地方の有力者の子 弟が就いた。 |
長官 (かみ) | 次官 (すけ) | 判官 (じょう) | 主典 (さかん) |
---|---|---|---|
督 | 佐 | 大尉 少尉 | 大志 医師 少志 |
兵衛府 | 衛門府 左衛士府 右衛士府 | 太政官 | |
---|---|---|---|
正一位 従一位 | 太政大臣 | ||
正二位 従二位 | 左大臣 右大臣 内大臣 | ||
正三位 | 大納言 | ||
従三位 | 中納言 | ||
正四位上 | |||
正四位下 | 参議 | ||
従四位上 | |||
従四位下 | |||
正五位上 | 督 | ||
正五位下 | |||
従五位上 | 督 | ||
従五位下 | 佐 | ||
正六位上 | |||
正六位下 | 佐 | ||
従六位上 | |||
従六位下 | 大尉 | ||
正七位上 | 少尉 | ||
正七位下 | 大尉 | ||
従七位上 | 少尉 | ||
従七位下 | |||
正八位上 | |||
正八位下 | 大志 | ||
従八位上 | 大志 | 少志 | |
従八位下 | 大志 |
(比較のため太政官も追記。)
その後、律令の制度改革により6つの役所になって819年以降定着し、律令制の廃止になる明治維新まで続く。
819年の元号は弘仁なので、平安の律令の三大改革に数えられる弘仁格式(こうにんきゃくしき)の一環だろう。
左近衛府 右近衛府 | さ(う)このえふ。 宮中のボディガード。 六衛府の中で最も身分が高い。 大納言や中納言が兼任した。 (太政大臣・左右大臣に次ぐナンバー3, 4の地位。) 身分が高いため、戦闘の陣頭指揮を取らなくなり、 高位の人のキャリアアップの通過点になっていく。 源頼朝や織田信長など、天下を取った武将も経験し た。 |
左衛門府 右衛門府 | さ(う)えもんふ。 衛門府と左右衛士府が統合されて、左右の2つに分か れた。 平安末期以降、中央政府とのパイプ作りをしたい武 士の役職になる。 |
左兵衛府 右兵衛府 | 五衛府と同じ。 平安末期以降、中央政府とのパイプ作りをしたい武 士の役職になる。 |
律令(りつりょう)
律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。
7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。
日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。
律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。
大宝律令と養老律令
古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。
近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。
律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。
大宝律令(たいほうりつりょう)
701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。
中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。
第42代 文武天皇の時代。
(じっさいは持統上皇が行なった。)
大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。
養老律令(ようろうりつりょう)
718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。
大宝律令の改訂版。
突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。
養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)
撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。
天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。
養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。
養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良
撰定から施行まで40年もかかっている。
オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。
女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。
(大宝律令の持統上皇も女帝。)
(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)
検非違使は派遣社員
検非違使は六衛府で足りない所を補うために用意された役所で、長官も衛門府や兵衛府の長官が兼務するのが通例でした。
政権中枢の参議や、中納言・大納言の権官、権中納言・権大納言が兼務することもありました。
(権官はポストに空きがないときに同じ階級の役職を与えるもの。)
検非違使は最初、衛門府に置かれそのあと独立したので、長官はそのまま兼務したのでしょう
出世ステップ1. まずは顔を覚えてもらう。
やっと本題です。これまで出てきた軍人の役職が武士の出世ルートになっていきます。役職を下の方からステップアップしてみていきます。
都の警護の検非違使は唯一、無位無官からなれるものでした。良く言ってノンキャリア官僚。実態は委託された民間の警備会社。衛門府や兵衛府に比べて入り口はゆるい。
でも無名の人がなることはほぼなく、源氏や平氏、藤原氏など、もともといい家柄の人がゴマンといました。
家柄はいいけど、仕事に恵まれなかった人たち。
とくに検非違使は、入り口もゆるいだけあってヤンキーみたいな人たちが多く、源頼朝が出てくる前の源氏には傍若無人がひどすぎて、白い目で見られアンタッチャブルな存在にされた人もいます。
成り上がるためには品位とか礼儀とか必要なのに、それについていけない人がたくさんいました。
検非違使 | 兵衛府 | 衛門府 | 太政官 | |
---|---|---|---|---|
正一位 従一位 | 太政大臣 | |||
正二位 従二位 | 左大臣 右大臣 内大臣 | |||
正三位 | 大納言 | |||
従三位 | 中納言 | |||
正四位上 | ||||
正四位下 | 参議 | |||
従四位上 | ||||
従四位下 | 別当 | |||
正五位上 | 督 | |||
正五位下 | ||||
従五位上 | 佐 | 督 | ||
従五位下 | 佐 | |||
正六位上 | ||||
正六位下 | 佐 | |||
従六位上 | 大尉 | |||
従六位下 | 少尉 | 大尉 | ||
正七位上 | 少尉 | |||
正七位下 | 大尉 | |||
従七位上 | 少尉 | |||
従七位下 | ||||
正八位上 | ||||
正八位下 | 大志 | 大志 | ||
従八位上 | 少志 | 大志 | 少志 | |
従八位下 | 大志 |
軍人の幹部は兼務だらけ。
律令政治の軍人の地位が低いのは近衛府だけではありません。衛門府や兵衛府の幹部も参議や権中納言などの人の兼務ばかりです。
そこに加えて、検非違使は衛門府と兵衛府の長官や次官が兼務していました。兼務していた人がさらに兼務。それぞれの組織が独立していると内紛が起きたとき大変なので、それを避けるためなのでしょう。
ただ、こんなに混ぜてしまうと誰が偉いのか分かりません。役職よりも位階で見てたんでしょうが、歴史学者じゃないかぎり後世の人が当時の人間関係を見るのはなかなか難しいです。
鎌倉時代になると、地頭(じとう)や守護(しゅご)の設置で検非違使の影響力はなくなっていきます。室町時代には六波羅探題ができました。
(六波羅探題は都の警護が名目だが実態は幕府の朝廷監視役。)
武士の出世が朝廷から幕府に変わっていくので(地頭や守護、六波羅探題)、検非違使は自然消滅します。
結局、軍人の役所の長官はぜんぶ政権中枢の人が兼任。
地頭(じとう)と守護(しゅご)
鎌倉政権が朝廷から地方統治を委任されるのにともなって設置された機関。
地頭は地方の長官。守護も同じ。
守護は国ごとに置かれ、地頭は荘園や国衙領(公領)に置かれた。
国衙領は国の直轄領のこと。
それまでの地方の長官だった国司は、鎌倉の力が大きくなるにしたがって守護に置きかわっていく。
国司は朝廷が任命し守護は鎌倉が任命するので、朝廷と鎌倉の力関係が逆転したことで守護が一般的になっていった。
(徐々に国司は自然消滅していく。)
もともと荘園や公領は国司の力が及ばない領域だったので守護の代わりに地頭を置く。
守護は警察・軍事の権利を持ち、地頭は主に荘園や公領のオーナーである朝廷の貴族や天皇・上皇への税金上納の管理をしていた税理士みたいなもの。
しかし、守護が公領に手を出せないのは変わらなかったので、地頭は税理士であると同時に領内の警察官の役割もあった。
じっさいに地頭と守護の上下関係や役割にちがいはなく、土地の性格のちがいで区別される。
守護 | (地方の)国を守る(護る)。 |
地頭 | オーナーがいる土地の管理の頭。 |
守護と地頭の力関係も各地域でバラバラ。任命された人の力関係による。
室町時代になると、国司時代から手を出せなかった公領に守護が進出し始め地頭は消滅。
(地頭が守護の家来になっていく。)
公領まで手を伸ばした守護は守護大名になり、戦国時代に突入する。
出世ステップ2. 軍団長の国司を目指す。
検非違使や六衛府の長官(政権中枢の人たち)、政権中枢の人たちに顔を覚えてもらったら、次に目指すのが国司。地方の長官です。
律令制度では国にランクがあり、ランクが高い国司のほうが朝廷の位階が高くなっていました。
争いごとが多い国は優秀な軍人がなります。もちろん、戦乱を抑えるだけの実力があるということで朝廷からの評価も上々。
各地で地盤を作った人が国司になるのが多かったので、よっぽどポンコツでないか、おイタをしないかぎり世襲でした。
たとえば、関東は坂東平氏の地盤。平将門(たいら の まさかど)が活躍した頃は多くの平氏の国司がいます。
また源氏も関東に地盤を持った国司でした。源頼朝(みなもと の よりとも)、足利高氏(あしかが たかうじ)など名だたる源氏の祖先は関東やその近辺の国司です。
国司をまとめる国司の按察使(あぜち)
もうひとつ、按察使という役職があります。これはいくつかの令制国をグループ化したもので、その中で一番強い国司に兼任させました。
(令制国は昔の地方の区分。)
軍団長の国司をまとめる各地の師団長ですね?
按察使は単独で務めることはなくあくまで国司の1人です。奈良時代(養老)に令外官として設置されました。
平安時代以降も東北の陸奥国と出羽国にあったみたいですが、政権中枢の人(大納言・中納言・参議)が兼務していたので、軍人じゃないし事実上名前だけだったようです。
そのまま自然消滅。
出世ステップ3. 鎮守府将軍を目指す。
やっぱり軍人は戦争が多いところに価値があります。同じ国司の軍団長でも戦績で『アイツすげーな』と思われる国司がいました。
陸奥国(東北)の国司です。陸奥は国のランクも最上位でした。
陸奥には数少ない軍団の駐屯地・鎮守府があったので、陸奥守が鎮守府将軍も兼任します。
これが軍人の最高位。ちゃんと戦争を指揮したことがある人なので、役職だけの貴族とはわけがちがいました。
じっさい、平安中期は坂東平氏の力のある人が陸奥守になって鎮守府将軍になり、関東の源氏の代表格・源義家(みなもと の よしいえ。八幡太郎)は、じいちゃん・父と3代続けて陸奥守・鎮守府将軍になっています。
歴史の教科書に出てくる平氏・源氏は平清盛(たいら の きよもり)や源頼朝(みなもと の よりとも)からですが、彼らの先祖のときから、どちらも鎮守府将軍になるほどのライバル関係だったんですね?
その後の鎮守府将軍と征夷大将軍
征夷大将軍は平安時代の初期に作られましたが、平安時代はずっと臨時総司令官のままでした。国司では解決できないほどの大乱が起きないかぎり不在です。
じっさい、有名な坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)の時代前後にしか任命された人はいません。
征夷大将軍が陽の目を見るのは、鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもと の よりとも)が就任してから。
それ以降はみんなが知っている、日本を統治する武士政権のトップで常設の征夷大将軍です。
一方、鎮守府将軍は、頼朝が奥州藤原氏を滅亡させて、東北一体を鎌倉政権に吸収したら役割を終えたので、自然消滅しました。
平家政権を樹立した平清盛は征夷大将軍になっていない。このときはまだ、征夷大将軍がそこまで価値をもっていなかったから。
清盛は、順当に六衛府や国司を歴任して最後に太政大臣になる。
征夷大将軍に価値をつけたのは源頼朝。
平家が目指したものは『武士出身の貴族』だったので興味がなかったのだろう。
むしろ左右の近衛大将に魅力を感じてたのかもしれない。近衛大将になれば自動的に大納言になり政権中枢に入り込めるし。