歴代天皇 - 絶好調の藤原氏と天皇たち -
第55代 文徳天皇(もんとく)は、母の実家も嫁の実家も藤原氏です。
この外戚の力で藤原氏は復活しました。復活どころか1000年以上、親戚であり仕事のパートナーであり続けます。
藤原氏に対抗しそうな勢力の大量リストラもありました。文徳天皇の意思なのかは不明。
古代・中世 平安時代 - 初期 -
- 皇居
平安宮
(へいあん の みや)
- 生没年
- 827年8月?日 ~ 858年8月27日
天長4 ~ 天安2
32才
- 在位
- 850年4月17日 ~ 858年8月27日
嘉祥3 ~ 天安2
9年
- 名前
- 道康
(みちやす)
- 別名
田邑帝
(たむらてい)
- 父
第54代 仁明天皇
(にんみょう)
- 母
藤原順子
(ふじわら じゅんし / のぶこ)藤原冬嗣の娘
(ふじわら ふゆつぐ)
- 女御
藤原明子
(ふじわら あきらけいこ)藤原良房の娘
(ふじわら よしふさ)
- 更衣
紀静子
(き の しずこ)紀名虎の娘
(き の なとら)
天皇が皇太子を決めるのに嫁の実家に気を使う
道康親王(みちやす。のちの文徳天皇)には、紀名虎(き の なとら)の娘・静子(しずこ)との間に長男が生まれていました。惟喬親王(これたか)です。
天皇は惟喬をとてもかわいがり、皇太子にしようとまで考えます。
しかし、文徳天皇として即位した同じ年に、右大臣・藤原良房(ふじわら よしふさ)の娘・明子(あきらけいこ)との間に皇子が生まれました。惟仁親王(これひと。次の清和天皇)。
文徳天皇は母の兄でもある良房に気を使って惟仁を皇太子にしました。
こんなことは今までなかったことで、これからあとの天皇は後継者を決めるのに嫁の実家を気にしはじめます。
嫁の実家はほぼ藤原氏なんだが。
皇后・后妃以外の実家に気を使う必要はない
これまでも少しは妻の実家に気づかいがありましたが、前提として嫁のランクがあったので、それがあっての気づかいでした。
しかし文徳天皇には皇后それに準ずる后妃がいません。藤原明子は女御だし、紀静子は更衣(こうい)です。
女御(にょうご)
位の高い朝廷の女官。天皇の側室候補でもあったので、天皇の側室という意味もある。
(更衣は女御のさらにひとつランク下。)
正室を持たずに側室だけいた状態。
これまでだったら気を使う必要はありませんでした。愛人の子は実家がどうあれ愛人の子なので。
前例に習うなら、明子を后妃に格上げして惟仁親王を皇太子にするはずですが、それもしていません。良房に気を使ったけど嫁ランクは動かさない中途半端なやり方。
このとき惟仁親王は生後8ヶ月。皇太子が政治家としてのキャリアを必要としなくなった平安時代の特長です。
史上初。人臣の太政大臣
854年、左大臣・源常(みなもと の ときわ)が亡くなると、皇太子のお祖父ちゃんになった右大臣・藤原良房は、左大臣を飛び越えて太政大臣になります。
太政大臣はこれまで、政治キャリアのある皇太子、それに準ずる親王がつとめる『最高の親王の最高の位』でした。
該当者がいなくて知太政官事という役職を作ったこともあるくらいです。また、藤原仲麻呂 / 恵美押勝(ふじわら なかまろ / えみ の おしかつ)は気を使ったのか『太師』でした。
(太師は太政大臣と同じくらいの役職だったと言われる。歴代太政大臣に入っていることも多い。)
ここで初めて皇族じゃない人が太政大臣になります。平清盛(たいら の きよもり)や豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)が太政大臣になれたのは良房が前例を壊したから。
知太政官事(ちだいじょうかんじ)
第42代 文武天皇から第45代 聖武天皇の間に置かれた令外官。
律令政治の太政官を監督するマネージャー職。
(左大臣よりも上。)
有力な皇族が務めた。
だれが? | 就任時期 |
---|---|
忍壁皇子 (おさかべ の みこ) 天武天皇の子。 | 703年(大宝3)~ 705年(大宝5)。 第42代 文武天皇 |
穂積皇子 (ほずみ の みこ) 天武天皇の子。 | 705年(大宝5)~ 715年(和銅8)。 第42代 文武天皇 第43代 元明天皇 |
舎人皇子 (とねり の みこ) 天武天皇の子。 | 720年(養老4)~ 735年(天平7)。 第44代 元正天皇 第45代 聖武天皇 |
鈴鹿王 (すずか の おおきみ) 高市皇子の次男。 天武天皇の孫。 | 737年(天平9)~ 745年(天平17)。 第45代 聖武天皇 |
このときすでに太政大臣があったが、前例の大友皇子(おおとも の みこ)、高市皇子(たけち の みこ)のように、皇太子に匹敵する人でないとなれなかった。
太政大臣を置くと皇太子と並び立つので、皇位継承争いを避けるため知太政官事を置いたとも言われる。
じっさい、知太政官事がいたときの太政大臣は不在。
(その後、太政大臣は皇族でなくてもなれるようになる。)
結局、歴代知太政官事は第40代 天武天皇の子が務めた。
(最後の鈴鹿王だけ孫。)
本格的な律令政治を始めた天武天皇の威光があるうちだけの役職だったとも言える。
(天武天皇は皇親政治を始めた人でもある。)
『政権内に1氏族ひとり』が完全崩壊
もうひとつ、藤原氏が勢力を拡大することが起きます。良房が太政大臣になって空いた右大臣のポストに、良房の弟・藤原良相(ふじわら の よしみ)がなります。
これまで、政権中枢の役職(左大臣、右大臣、大納言、中納言)は、1氏族ひとりだけという暗黙のルールがありました。
特定の氏族がやりたい放題するのを防ぐため。このときすでに暗黙のルールはグダグダになっていましたが、政権の中でもトップ3に兄弟がいるなんてことはありませんでした。
日本の政治でいちばんコミットした氏族はまちがいなく藤原氏です。1000年以上君臨しました。
それが始まったのが文徳天皇の時代です。
文徳天皇は暗殺された?
惟仁親王が皇太子になり藤原良房が太政大臣になるなど、藤原氏がグングン上がっていくのに対して、親王たちがどんどん出家していきました。
851年、常康親王 (つねやす) | 文徳天皇の弟。 母は紀名虎の娘・種子(たねこ / しゅし)。 |
856年、国康親王 (くにやす) | 文徳天皇の弟。 母は藤原福当麻呂(ふじわら ふたきまろ) の娘・賀登子(かとこ)。 福当麻呂は良房の叔父。 |
858年、毎有親王 (ことあり) | 文徳天皇の皇子。 母は多治比氏(たじひし)出身。 |
惟仁親王のジャマになりそうな皇子たちの大量リストラ。それ以外にも同じ藤原氏でもおかまいなしのリストラ or 左遷。
ちなみに、亡くなった源常は嵯峨源氏の第1世代です。この世代は嵯峨天皇の息子たち。
藤原良房は、皇太子になってもおかしくない元皇子たちをさしおいて太政大臣になったことになります。
嵯峨源氏の第1世代はまだ残っていた。その後、左大臣になったものもいる。
そんな中、文徳天皇は32才の若さで急死しました。脳卒中だったと言われますが暗殺説もあります。
藤原良房が惟仁親王を即位させ、藤原1強を確実にするために。
(嵯峨源氏の元皇子たちを抑えることができる。)
文徳天皇は洞察力があって政治の争いに熱心だったようなので、それが災いしたのかもしれません。
857年(天安元)2月、藤原良房が太政大臣になる。
858年(天安2)8月、文徳天皇が亡くなる。
良房が太政大臣になってから文武天皇が亡くなるまで1年半しか経っていない。
その中には右大臣になったのもいる。
藤原氏にとっては、これらの源氏(元皇族)をまとめて抑える必要があった。
文徳天皇のときも大量リストラの中から源氏が生まれた。(文徳源氏)
(源氏二十一流)
その中からも右大臣を出している。藤原氏は太政大臣でトップを押さえたが、それ以外は元皇族の源氏勢力と並び立っていた。
藤原1強ではあるが藤原1色ではない。
源氏二十一流(げんじにじゅういちりゅう)
天皇の子孫の氏族の源氏には21の系統がある。その総称。
天皇の息子・孫を臣籍降下して民間人にするのに源(みなもと)姓は多く使われ、第52代 嵯峨天皇の息子から始まる。
平安時代の初期から中期にかけて、天皇は源氏を作るのが常識なほど一番多く作られた。
ペースは徐々に落ちていくが、戦国時代の第106代 正親町天皇の系統が江戸時代初期に作られたのが最後。
1 | 第52代 嵯峨天皇 | 嵯峨源氏 (さが) | 最初は、左大臣・右大臣など、藤原氏と並ぶ政治家一門だった。 徐々に藤原氏に押され有力政治家を出さなくなる。 渡辺氏、松浦氏、蒲池氏など知る人ぞ知る武士に残った程度。 |
2 | 第54代 仁明天皇 | 仁明源氏 (にんみょう) | 嵯峨源氏と同じく、藤原氏と並ぶ政治家一門だった。 仁明源氏の中から平氏に枝分かれしたのもいる。 (仁明平氏) 徐々に藤原氏に押され有力政治家を出さなくなり、その後目立った人は出ていない。 |
3 | 第54代 文徳天皇 | 文徳源氏 (もんとく) | 前例と同じく藤原氏と並ぶ政治家一門だった。 徐々に藤原氏に押され有力政治家を出さなくなり、その後目立った人は出ていない。 |
4 | 第56代 清和天皇 | 清和源氏 (せいわ) | 政治家としてはパッとしない。 国司や軍事専門の地方役人などに多くの人を輩出する。 それらが武士となり、日本最高の武家一門に成長する。 源頼朝、足利高氏など有力武将は数知れず。 貴族としては公卿にギリギリ滑り込んだ程度。 唯一残っていた竹内家がつづき明治に華族になった。 21の源氏の中でもっとも有名になった家。 村上源氏以外でただひとり、足利義満が太政大臣になった。 |
5 | 代57代 陽成天皇 | 陽成源氏 (ようぜい) | 多くの公卿を輩出する政治家一門だったが、これまでの源氏と比べ見劣りする。 その後も目立った貴族、武士などはいない。 |
6 | 代58代 光孝天皇 | 光孝源氏 (こうこう) | 最初は、中納言を輩出するなど政治家一門だったがフェードアウト。 その中でひとり、康尚(こうしょう)が仏師になり日本仏教彫刻の最大勢力、慶派(けいは)を作っていく。 鎌倉時代の有名な彫刻家、運慶・湛慶(うんけい・たんけい)もその子孫。 その他、数々の天才彫刻家は数知れず。 慶派は幕末の動乱まで仏師の主流だった。 (日本の彫刻界の中心だったと言ってもいい。) |
7 | 第59代 宇多天皇 | 宇多源氏 (うだ) | 最初は左大臣を出すなど政治家一門だったがフェードアウト。 鎌倉時代には綾小路家・大原家など公卿の中堅に多くを出した。 明治になると多くが華族になる。 佐々木氏など有力武士も多いが天下取りを争うほどではない。 |
8 | 第60 醍醐天皇 | 醍醐源氏 (だいご) | 最初は左大臣を出すなど政治家一門だったがフェードアウト。 その後、貴族ではあったが地下家(じげけ)で上流貴族になれていない。 地方に散らばり武士になった人も多いがメジャーではない。 |
9 | 第62代 村上天皇 | 村上源氏 (むらかみ) | 多くの源氏が朝廷でフェードアウトする中、最後まで上流貴族を保った。 (天皇の子孫の意地を見せた。) 藤原氏にかくれているが、貴族の源氏と言えば村上源氏というくらいの勢力。 源氏で最大の3人の太政大臣を出す。 明治維新の岩倉具視(いわくら ともみ)を出した。 武士では北畠氏(きたばたけ)を出した。 |
10 | 第63代 冷泉天皇 | 冷泉源氏 (れいぜい) | 作られた当初から存在感がない。 本当にあったのか? と思うほど。 |
11 | 第65代 花山天皇 | 花山源氏 (かざん) | ギリギリ上流貴族の半家に白川伯王家(しらかわはくおう)が残っただけ。 1家で頑張ってきたが昭和になって断絶した。 |
12 | 第67代 三条天皇 | 三条源氏 (さんじょう) | 貴族では最初からパッとしない。 僧侶や天皇の妻などになり目立たない。 |
13 | 第71代 後三条天皇 | 後三条源氏 (ごさんじょう) | ひとりだけ源氏になった源有仁(みなもと の ありひと)は左大臣までなったが後継者がいなくて断絶。 武士の中には後三条源氏を名乗るものがいたが自称の可能性が高い。 |
14 | 第77代 後白河天皇 | 後白河源氏 (ごしらかわ) | 反平家の挙兵をした以仁王(もちひとおう)ひとりだけ。 皇籍を剥奪され懲罰で源氏になった。 討伐軍に追われて戦死。 |
15 | 第84代 順徳天皇 | 順徳源氏 (じゅんとく) | ひとり左大臣を出した。 室町幕府 第3代 将軍・足利義満(あしかが よしみつ)のときに最後の一人が出家してしまい断絶。 |
16 | 第88代 後嵯峨天皇 | 後嵯峨源氏 (ごさが) | 源惟康(みなもと の これやす)ひとりだけ。 鎌倉幕府 第7代 征夷大将軍になる。 親王のままの将軍は都合が悪いから源氏になった可能性が高い。 |
17 | 第89代 後深草天皇 | 後深草源氏 (ごふかくさ) | 鎌倉幕府 第8代 将軍・久明親王(ひさあきら)の孫が源氏になる。 大納言にまでなったがあとが続いていない。 |
18 | 代90代 亀山天皇 | 亀山源氏 (かめやま) | 特筆する人はない。 |
19 | 第84代 後二条天皇 | 後二条源氏 (ごにじょう) | 特筆する人はいない。 |
20 | 第96代 後醍醐天皇 | 後醍醐源氏 (ごだいご) | 後醍醐天皇の孫が源氏になったと言われるが、詳細がない。 (信憑性はないかも?) 武家の大橋氏、神社を代々守る社家の氷室氏など末裔を名乗る氏族はいる。 |
21 | 第106代 正親町天皇 | 正親町源氏 (おおぎまち) | 正親町天皇は織田信長・豊臣秀吉のころの天皇だが、江戸時代にその子孫が源氏になる。 広幡家(ひろはた) 摂関家に次ぐ清華家になるなど格別の待遇を受けた。 明治になると華族になる。 |
源氏として活躍したのは平安中期までに作られた源氏で、村上源氏で勢いは止まる。
その後は活躍する人が出ていない。鎌倉時代は幕府の将軍が大きく関係している。
臣籍降下(しんせきこうか)
皇族が臣下の籍に降りること。
皇族が民間人になって皇室から離れること。
奈良時代は罰として皇籍剥奪として行われることもあり、反省して許されると皇族に戻ることもあった。
平安時代以降は、貴族だけでなく仏門に入る人も増え、皇族数の調整弁に使われることが多くなった。
貴族の家格(かかく)
平安時代になると特定の家が要職を占めるようになる。
鎌倉時代になると貴族のランクが家単位で固まった。それを家格という。
1 | 摂関家 (せっかんけ) | 摂政、関白、太政大臣になる。 五摂家。 すべて藤原北家の流れ。 |
2 | 清華家 (せいがけ) | 摂政・関白はなれないが、太政大臣になる道があった。 江戸時代には最高位が左大臣に下げられる。 (江戸時代に太政大臣は摂関だけに限定。) 三条(さんじょう) 西園寺(さいおんじ) 徳大寺(とくだいじ) 久我(こが) 花山院(かざんいん) 大炊御門(おおいのみかど) 菊亭・今出川(きくてい。または、いまでがわ) の7家。 久我家は唯一、天皇の子孫の源氏の流れ。 (村上源氏) ほかはすべて摂関家に食い込めなかった藤原氏北家。 江戸時代に広幡家(ひろはた)と醍醐家(だいご)を追加した。 広幡家は第106代 正親町天皇の子孫の正親町源氏。 醍醐家は五摂家のひとつ一条家の分家。 |
3 | 大臣家 (だいじんけ) | 清華家の分家。 摂関家・清華家はなれない参議 -> 中納言とステップアップする家。 大納言・近衛大将を飛び越えて内大臣になる道もあった。 (まれに右大臣になる人もいた。) 太政大臣になることもできたが江戸時代に廃止。 正親町三条・嵯峨(おおぎまちさんじょう。のちにさが) -> 三条家の分家。藤原氏。 三条西(さんじょうにし) -> 正親町三条の分家。藤原氏。 中院(なかのいん) -> 久我の分家。村上源氏。 の3家。 |
4 | 羽林家 (うりんけ) | 近衛少将・中将になる。 参議 -> 中納言 -> 大納言にステップアップする家。 軍事を担当する。 江戸時代には大名家に与えられた。 藤原北家: 51家(上位や同じ羽林家からの分家) 藤原南家: 4家 村上源氏: 8家(久我の分家) 宇多源氏: 3家 数がいきなり増える。また、藤原南家、宇多源氏など、上位に見られない系統もある。 |
4 | 名家 (めいけ / めいか) | 序列は羽林家と同じ。 最高位も同じで大納言。 (例外で左大臣になる人もいた。) 天皇のお世話係の侍従・文書作成などの弁官から出世する。 羽林家は武門に対して名家は文官。 藤原北家: 25家 桓武平氏: 3家 平安末期にイケイケだった平家がひっそりと残る。 |
5 | 半家 (はんけ) | 大納言になった人がいるがほとんどが参議になってない。 (上流貴族でも政権中枢に入れない) 特殊技能を使って朝廷の仕事をした。 藤原北家: 2家 清和源氏: 1家 宇多源氏: 2家 花山源氏: 1家 桓武平氏: 2家 菅原氏(すがわら): 6家 清原氏(きよはら): 3家 大中臣氏(おおなかとみ): 1家 卜部氏(うらべ): 4家 安倍氏(あべ): 2家 丹波氏(たんば): 1家 大江氏(おおえ): 1家 いろいろな氏族が入っている。 菅原道真(すがわら の みちざね)の菅原氏、マイナーな源氏など。 清原氏は天皇の子孫。源氏よりも古く、飛鳥・奈良時代の天皇から分家した。 大中臣氏は藤原氏の祖先・中臣氏の流れ。藤原氏の本家筋。 古代から宮中祭祀を仕切る仕事をしてきた。 卜部氏は卜筮(ぼくぜい)という占い専門の集団。 安倍氏も天皇の子孫。第8代 孝元天皇の皇子・大彦命(おおひこ の みこと)の流れで天皇の子孫でもダントツに古い。 (神話の話で信憑性も薄い。) 安倍氏の系統・土御門家(つちみかどけ)は陰陽道を駆使した。 陰陽師・安倍晴明(あべ の せいめい)がいた家。 丹波氏は、第15代 応神天皇のころに来日した渡来系氏族の末裔。 坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)を出した坂上氏の分家。 医療技術(薬剤を含む)を駆使し多くの医者を出した。 大江氏は、古代からの氏族・土師氏(はじうじ)の分家と言われる。 土師氏は埴輪(はにわ)を開発した野見宿禰(のみ の すくね)から始まる土木技術を得意とした氏族。 (ちなみに、野見宿禰は日本最古の力士・相撲取りとも言われる。) 上流貴族にギリギリ入り込んだランクではあるが、氏族・得意分野のバリエーションが多く魅力的な集団。 |
表の6つのカテゴリは堂上家(どうじょうけ)といい、天皇の住居兼オフィスの清涼殿(せいりょうでん)に入ることが許された貴族。
堂上家は太政官の政権中枢の役職(中納言・大納言・右大臣・左大臣)になれる貴族で公卿(くぎょう)ともいう。
堂上家に対して、昇殿を許されない貴族もいた(江戸時代には460家以上)。地下家(じげけ)という。
また、堂上家(公卿)じゃないのに昇殿が許された人を殿上人(てんじょうびと)という。
これらのカテゴリは貴族の位階で決まっていた。
正一位 従一位 正二位 従二位 正三位 従三位 | 堂上家 | 無条件に清涼殿への出入りが許される。 政権中枢の人しかいない。 今でいうと、代々内閣の閣僚を務める家。 |
正四位上 正四位下 従四位上 従四位下 正五位上 正五位下 従五位上 従五位下 | 殿上人 | 本来は清涼殿への出入りは許されないが、天皇が認めた者だけ許された。 実態は堂上家が認め天皇が追認。 この中には太政官以外の、国司や検非違使、六衛府の長官なども含まれる。 今でいうと、内閣府も含め各省庁の長官で天皇に謁見が許される人がいたということ。 |
正六位上 以下 | 地下家 | 清涼殿への出入りが許されない。 |
朝廷の官職は位階によって決まるので、自動的に家柄で役職が決まった。
位階と官職はリンクしているので2つセットで官位(かんい)という。
五摂家(ごせっけ)
平安時代の摂関政治では摂政・関白になれる家は決まっていた。それを摂関家(せっかんけ)という。
鎌倉時代以降、摂関家の中でさらに摂政・関白になれる家柄がしぼられた。その5家のことを五摂家という。
- 近衛(このえ)
- 九条(くじょう)
- 二条(にじょう)
- 一条(いちじょう)
- 鷹司(たかつかさ)
くわしくは『摂関政治とは何か?』で。
五摂家は明治に入ってもつづき、華族制度ができてからは華族として位置づけられた。
1947年の華族制度の廃止まで、由緒ある家として知られていた。
文徳天皇が皇太子に熱望した惟喬親王は、太宰府の長官、国司の長官を歴任したあと出家した。
国司(こくし)と郡司(ぐんじ)
国司
古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。
地方のすべての権限を持っていた。
京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)
送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏)
今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。
もってる力は絶大。
偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。
長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。
それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。
受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。
平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)
鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。
戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。
- 織田 上総介(かずさのすけ)信長
- 徳川 駿河守(するがのかみ)家康
織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。
織田信長が一番偉くないのが面白い。
郡司
市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。
大宝律令と養老律令
古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。
近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。
律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。
大宝律令(たいほうりつりょう)
701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。
中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。
第42代 文武天皇の時代。
(じっさいは持統上皇が行なった。)
大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。
養老律令(ようろうりつりょう)
718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。
大宝律令の改訂版。
突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。
養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)
撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。
天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。
養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。
養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良
撰定から施行まで40年もかかっている。
オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。
女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。
(大宝律令の持統上皇も女帝。)
(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)
天皇が特別にかわいがった皇子としては出世していないキャリア。源氏にもなれず中央政府の貴族すらなれていない。
良房の威光が働いているのが丸見え。意図的に遠ざけられるほど天皇の息子たちの中でもかなり優秀だったのだろう。