歴代天皇 - 絶好調の藤原氏と天皇たち -
第52代 嵯峨天皇(さが)は子どものころから評価が高く、じっさい平安時代の基礎を作ったと言われる優秀な天皇です。
兄・平城上皇が挙兵したところ、素早い判断で坂上田村麻呂にまかせて大戦にならないように鎮めました。
天井知らずの能力を持っているのに調子に乗らないところもGood。
古代・中世 平安時代 - 初期 -
- 皇居
平安宮
(へいあん の みや)
- 生没年
- 786年9月7日 ~ 842年7月15日
延暦5 ~ 承和9
57才
- 在位
- 809年4月1日 ~ 823年4月16日
大同4 ~ 弘仁14
14年
- 名前
- 神野
(かみの)
- 父
第50代 桓武天皇
(かんむ)
- 母
藤原乙牟漏
(ふじわら おとむろ)藤原良継の娘
(ふじわら よしつぐ)
- 皇后
橘嘉智子
(たちばな の かちこ)檀林皇后
(だんりん)橘清友の娘
(たちばな の きよとも)
天皇よりも父から好かれた『天子の器』
神野親王(かみの。のちの嵯峨天皇)は幼いころから、父で先々代の桓武天皇に『天子の器』と言われるほど優秀でした。
一方、兄で先代の平城天皇は、藤原薬子(ふじわら くすこ)との禁断の愛で父と仲たがいしています。
神野親王は平城天皇のときに皇太子になりました。平城天皇には二人の皇子が生まれていましたが、父・桓武天皇の意向がはたらいたようです。
桓武天皇は悪女にうつつを抜かす平城天皇に愛想を尽かしたのでしょう。じっさい、平城天皇の子孫は天皇になっていません。
兄と一触即発
平城天皇は3年で退位して上皇になります。嵯峨天皇が即位しました。
しかし上皇は、嵯峨天皇が即位してすぐに自分がもう1回天皇になる野心を出して、かつての都・平城京で遷都を宣言します。
(平安京から平城京へ都を移す。)
嵯峨天皇は拒否。
坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)に守りを固めさせ、カウンターを食らわす準備をはじめました。
上皇はあきらめて平城京で隠居。嵯峨天皇が勝利しました。
(平城太上天皇の変(薬子の変)。くわしくは平城天皇のところで。)
兄の政策の否定
くわしくは平城天皇のところにまかせますが、嵯峨天皇は、平城天皇が参議を廃止して観察使を置いたのを否定し、参議を復活させました。
(参議は太政官の政権の中枢の役職。初入閣の大臣みたいなもの。)
平城上皇は藤原薬子にそそのかされて野心を出しましたが、弟に否定されてブチ切れた面もあります。
政権の仕切り直し
嵯峨天皇は兄・平城上皇に勝利しましたが朝廷内はゆるんでいました。上皇についていった官僚たちがいたからです。
その中には薬子のように政権幹部もいたので、仕事はストップ、機密情報がダダ漏れの可能性もありました。
そこで蔵人所(くろうどどころ)を作ります。蔵人所は天皇直属の秘書官のような機関。
初代長官は藤原冬嗣(ふじわら ふゆつぐ)です。
藤原冬嗣はここから大出世していく。
あとでイケイケになる平安の藤原氏は冬嗣から始まった。
また、奈良時代から国家の基本として使ってきた律令制度を時代にあうように改訂しました。
(弘仁格式(こうにんきゃくしき))
律令(りつりょう)
律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。
7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。
日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。
律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。
大宝律令と養老律令
古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。
近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。
律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。
大宝律令(たいほうりつりょう)
701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。
中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。
第42代 文武天皇の時代。
(じっさいは持統上皇が行なった。)
大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。
養老律令(ようろうりつりょう)
718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。
大宝律令の改訂版。
突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。
養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)
撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。
天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。
養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。
養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良
撰定から施行まで40年もかかっている。
オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。
女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。
(大宝律令の持統上皇も女帝。)
(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)
これが平安時代の基礎になったと言われます。父・桓武天皇の目に狂いはありませんでした。
嵯峨天皇は検非違使(けびいし)も増設している。
上皇との戦争に備えて増設した。
デキる政治家・藤原冬嗣(ふじわら ふゆつぐ)
藤原冬嗣は、歴史上の藤原氏のなかで必ずテストに出てくるほど有名な人です。
理由は、平安時代の基礎を作った嵯峨天皇に信頼され、政策立案・実行のほぼすべてを任されたから。
蔵人所の長官もそうだし、弘仁格式の編集長もつとめました。平安時代を作ったのは冬嗣といっても過言じゃありません。
皇后が藤原氏じゃない
嵯峨天皇の皇后は藤原薬子に懲りていたので藤原氏ではありません。権力闘争で藤原氏に倒されてきた橘氏の出身です。
それだけ藤原氏の信用が一気に下がっていたのでしょう。調子に乗りすぎた藤原薬子・藤原仲成の朝廷内での嫌われ方は尋常じゃありません。
藤原氏の評価を下げたのは藤原式家。
(式家はそのまま凋落。)
藤原氏の復活を成し遂げるのは嵯峨天皇の信頼が厚かった藤原冬嗣。
冬嗣は藤原北家。
嵯峨天皇の息子・第54代 仁明天皇に冬嗣の娘が嫁いで復活した。
(第55代 文徳天皇は冬嗣の孫。)
橘氏と藤原氏の因縁
皇后・橘嘉智子(たちばな の かちこ)は橘奈良麻呂(ならまろ)の孫で、橘諸兄(もろえ)のひ孫です。
諸兄は奈良時代の第45代 聖武天皇のときの左大臣で、政権トップをつとめた大物。そして、もとは皇族で第30代 敏達天皇の子孫。
(臣籍降下して橘氏になる。)
臣籍降下(しんせきこうか)
皇族が臣下の籍に降りること。
皇族が民間人になって皇室から離れること。
奈良時代は罰として皇籍剥奪として行われることもあり、反省して許されると皇族に戻ることもあった。
平安時代以降は、貴族だけでなく仏門に入る人も増え、皇族数の調整弁に使われることが多くなった。
当時、イケイケだった藤原仲麻呂(ふじわら の なかまろ)の策略で、第46代 孝謙天皇のとき左大臣を辞任して失脚しました。
(年老いていたので戦う気力がなかったというのもある。)
奈良麻呂は父・諸兄が亡くなった年に仲麻呂を倒そうとしたところ、逮捕されて獄死してます。
(橘奈良麻呂の乱)
橘氏は天皇の血筋をもち天下を取ってもいいのに、藤原氏に対抗して潰されてきた氏族です。
30代で退位
嵯峨天皇も兄・平城天皇と同じように若くして退位しました。まだ38才です。
また嵯峨天皇は、三筆(さんぴつ)に数えられるほどのトップ文化人でもありました。
(三筆は書道が上手いビッグ3)
ちなみに嵯峨天皇は三筆のひとり、空海を手厚くバックアップします。京都の東寺を与え教王護国寺を名乗るのを許しました。
天才書道家同士だったので分かりあえるものがあったのでしょう。
嵯峨上皇は退位したあとも、息子(仁明天皇)が即位したときに皇太子を孫・恒貞親王(つねさだ)に指名するなど、30年以上絶大な影響力をもち亡くなりました。
若くして即位もスタンダードになる
嵯峨天皇は先代からの譲位で若くして即位したはじめての天皇です。
(24才で即位)
譲位(じょうい)
天皇が生前に退位して次の天皇を即位させること。退位した天皇は上皇になる。
第35代 皇極天皇が乙巳の変(いっしのへん)の責任をとって行なったことから始まる。
はじめは天皇の目の前で暗殺事件がおきるというアクシデントだった。
大宝律令で制度化され天皇の終わり方の常識になる。最初に制度化された譲位をしたのは第41代 持統天皇。
持統天皇から今上天皇まで80代の天皇のうち60代は譲位。
(制度化されてから2/3が譲位)
なかには亡くなっているのをかくして、譲位をしてから崩御を公表する『譲位したことにする』天皇もいた。
それだけ譲位が天皇の終わり方の『あたりまえ』だった。
譲位の理由はいろいろ。
次世代が育つ。 |
そのときの権力者の都合。 自分の娘を皇太子に嫁がせているので早く天皇にしたいとか。 (権力闘争に利用される) |
病気。 |
仏教徒になりたい。 |
幕府に抗議するため。 |
天皇の意思。 |
理由なし。 あたりまえだと思っていた。 |
過去にはありませんでした。これから後、『若くして即位し若くして退位する』が天皇のスタンダードになります。
『経験を積まないと天皇になれない』
『天皇は長老』
の常識が無くなりました。これも古代とはちがう平安時代の特長です。平安時代にはあたり前に子どもの天皇が出てきますが、その道筋はこのときにできたと言えるでしょう。
嵯峨上皇は退位してから19年も健在でした。まるで平安末期の院政のようです。
嵯峨上皇が亡くなったあと
嵯峨上皇の力が絶大だったエピソードがあります。承和の変(しょうわのへん)です。
上皇が亡くなるとすぐ、皇太子・恒貞親王をクビにする事件が起きました。もうひとりの三筆・橘逸勢らが恒貞親王を天皇にしようとクーデターを企んでいるという事件。
ただこれは全員無実で、藤原冬嗣の息子・藤原良房(ふじわら よしふさ)がほかの氏族を一掃するためのウソでした。
良房の計画は見事成功。
恒貞親王は以前から命の危険を感じて皇太子を辞めたいと言っていて、そのたびに上皇は却下していました。
良房は父・冬嗣が亡くなってから上皇がいちばん信頼していた部下でした。
承和の変は上皇が圧倒的な力で抑えていたものが爆発した事件です。というか、三筆が3人とも絡んでるじゃねーか?
源氏の生みの親
嵯峨天皇には、たくさんの妃・子どもがいました。しかし宮廷の費用が膨れ上がってしまいます。30人くらいの嫁・子どもを臣籍降下させて民間人にしました。
臣籍降下(しんせきこうか)
皇族が臣下の籍に降りること。
皇族が民間人になって皇室から離れること。
奈良時代は罰として皇籍剥奪として行われることもあり、反省して許されると皇族に戻ることもあった。
平安時代以降は、貴族だけでなく仏門に入る人も増え、皇族数の調整弁に使われることが多くなった。
言ってしまえばリストラで解雇。ペナルティではないのでアフターケアでそれなりの援助はしていたでしょうが。
そこから誕生したのが有名な源氏です。このあとも臣籍降下は多く行われ『源』はよく使われました。21の系統が出てきます。
(源氏二十一流)
そのスタートを切ったのが嵯峨天皇です。嵯峨天皇から生まれた源氏のことを嵯峨源氏(さがげんじ)と言います。
『自分の葬式は派手にしなくていい。墓は草木が生えたままでいい。』というくらい、能力はあるのに調子に乗らない嵯峨天皇らしいやり方。
源氏は武士として有名だが、武士の源氏のもとは国司。
臣籍降下した源姓の人には寺の住職になったのもいるし、官僚になって左大臣までなった源氏もいる。
武士の源氏で天下をとった源頼朝(みなもと の よりとも)の系統は清和源氏。
源氏二十一流(げんじにじゅういちりゅう)
天皇の子孫の氏族の源氏には21の系統がある。その総称。
天皇の息子・孫を臣籍降下して民間人にするのに源(みなもと)姓は多く使われ、第52代 嵯峨天皇の息子から始まる。
平安時代の初期から中期にかけて、天皇は源氏を作るのが常識なほど一番多く作られた。
ペースは徐々に落ちていくが、戦国時代の第106代 正親町天皇の系統が江戸時代初期に作られたのが最後。
1 | 第52代 嵯峨天皇 | 嵯峨源氏 (さが) | 最初は、左大臣・右大臣など、藤原氏と並ぶ政治家一門だった。 徐々に藤原氏に押され有力政治家を出さなくなる。 渡辺氏、松浦氏、蒲池氏など知る人ぞ知る武士に残った程度。 |
2 | 第54代 仁明天皇 | 仁明源氏 (にんみょう) | 嵯峨源氏と同じく、藤原氏と並ぶ政治家一門だった。 仁明源氏の中から平氏に枝分かれしたのもいる。 (仁明平氏) 徐々に藤原氏に押され有力政治家を出さなくなり、その後目立った人は出ていない。 |
3 | 第54代 文徳天皇 | 文徳源氏 (もんとく) | 前例と同じく藤原氏と並ぶ政治家一門だった。 徐々に藤原氏に押され有力政治家を出さなくなり、その後目立った人は出ていない。 |
4 | 第56代 清和天皇 | 清和源氏 (せいわ) | 政治家としてはパッとしない。 国司や軍事専門の地方役人などに多くの人を輩出する。 それらが武士となり、日本最高の武家一門に成長する。 源頼朝、足利高氏など有力武将は数知れず。 貴族としては公卿にギリギリ滑り込んだ程度。 唯一残っていた竹内家がつづき明治に華族になった。 21の源氏の中でもっとも有名になった家。 村上源氏以外でただひとり、足利義満が太政大臣になった。 |
5 | 代57代 陽成天皇 | 陽成源氏 (ようぜい) | 多くの公卿を輩出する政治家一門だったが、これまでの源氏と比べ見劣りする。 その後も目立った貴族、武士などはいない。 |
6 | 代58代 光孝天皇 | 光孝源氏 (こうこう) | 最初は、中納言を輩出するなど政治家一門だったがフェードアウト。 その中でひとり、康尚(こうしょう)が仏師になり日本仏教彫刻の最大勢力、慶派(けいは)を作っていく。 鎌倉時代の有名な彫刻家、運慶・湛慶(うんけい・たんけい)もその子孫。 その他、数々の天才彫刻家は数知れず。 慶派は幕末の動乱まで仏師の主流だった。 (日本の彫刻界の中心だったと言ってもいい。) |
7 | 第59代 宇多天皇 | 宇多源氏 (うだ) | 最初は左大臣を出すなど政治家一門だったがフェードアウト。 鎌倉時代には綾小路家・大原家など公卿の中堅に多くを出した。 明治になると多くが華族になる。 佐々木氏など有力武士も多いが天下取りを争うほどではない。 |
8 | 第60 醍醐天皇 | 醍醐源氏 (だいご) | 最初は左大臣を出すなど政治家一門だったがフェードアウト。 その後、貴族ではあったが地下家(じげけ)で上流貴族になれていない。 地方に散らばり武士になった人も多いがメジャーではない。 |
9 | 第62代 村上天皇 | 村上源氏 (むらかみ) | 多くの源氏が朝廷でフェードアウトする中、最後まで上流貴族を保った。 (天皇の子孫の意地を見せた。) 藤原氏にかくれているが、貴族の源氏と言えば村上源氏というくらいの勢力。 源氏で最大の3人の太政大臣を出す。 明治維新の岩倉具視(いわくら ともみ)を出した。 武士では北畠氏(きたばたけ)を出した。 |
10 | 第63代 冷泉天皇 | 冷泉源氏 (れいぜい) | 作られた当初から存在感がない。 本当にあったのか? と思うほど。 |
11 | 第65代 花山天皇 | 花山源氏 (かざん) | ギリギリ上流貴族の半家に白川伯王家(しらかわはくおう)が残っただけ。 1家で頑張ってきたが昭和になって断絶した。 |
12 | 第67代 三条天皇 | 三条源氏 (さんじょう) | 貴族では最初からパッとしない。 僧侶や天皇の妻などになり目立たない。 |
13 | 第71代 後三条天皇 | 後三条源氏 (ごさんじょう) | ひとりだけ源氏になった源有仁(みなもと の ありひと)は左大臣までなったが後継者がいなくて断絶。 武士の中には後三条源氏を名乗るものがいたが自称の可能性が高い。 |
14 | 第77代 後白河天皇 | 後白河源氏 (ごしらかわ) | 反平家の挙兵をした以仁王(もちひとおう)ひとりだけ。 皇籍を剥奪され懲罰で源氏になった。 討伐軍に追われて戦死。 |
15 | 第84代 順徳天皇 | 順徳源氏 (じゅんとく) | ひとり左大臣を出した。 室町幕府 第3代 将軍・足利義満(あしかが よしみつ)のときに最後の一人が出家してしまい断絶。 |
16 | 第88代 後嵯峨天皇 | 後嵯峨源氏 (ごさが) | 源惟康(みなもと の これやす)ひとりだけ。 鎌倉幕府 第7代 征夷大将軍になる。 親王のままの将軍は都合が悪いから源氏になった可能性が高い。 |
17 | 第89代 後深草天皇 | 後深草源氏 (ごふかくさ) | 鎌倉幕府 第8代 将軍・久明親王(ひさあきら)の孫が源氏になる。 大納言にまでなったがあとが続いていない。 |
18 | 代90代 亀山天皇 | 亀山源氏 (かめやま) | 特筆する人はない。 |
19 | 第84代 後二条天皇 | 後二条源氏 (ごにじょう) | 特筆する人はいない。 |
20 | 第96代 後醍醐天皇 | 後醍醐源氏 (ごだいご) | 後醍醐天皇の孫が源氏になったと言われるが、詳細がない。 (信憑性はないかも?) 武家の大橋氏、神社を代々守る社家の氷室氏など末裔を名乗る氏族はいる。 |
21 | 第106代 正親町天皇 | 正親町源氏 (おおぎまち) | 正親町天皇は織田信長・豊臣秀吉のころの天皇だが、江戸時代にその子孫が源氏になる。 広幡家(ひろはた) 摂関家に次ぐ清華家になるなど格別の待遇を受けた。 明治になると華族になる。 |
源氏として活躍したのは平安中期までに作られた源氏で、村上源氏で勢いは止まる。
その後は活躍する人が出ていない。鎌倉時代は幕府の将軍が大きく関係している。
臣籍降下(しんせきこうか)
皇族が臣下の籍に降りること。
皇族が民間人になって皇室から離れること。
奈良時代は罰として皇籍剥奪として行われることもあり、反省して許されると皇族に戻ることもあった。
平安時代以降は、貴族だけでなく仏門に入る人も増え、皇族数の調整弁に使われることが多くなった。
貴族の家格(かかく)
平安時代になると特定の家が要職を占めるようになる。
鎌倉時代になると貴族のランクが家単位で固まった。それを家格という。
1 | 摂関家 (せっかんけ) | 摂政、関白、太政大臣になる。 五摂家。 すべて藤原北家の流れ。 |
2 | 清華家 (せいがけ) | 摂政・関白はなれないが、太政大臣になる道があった。 江戸時代には最高位が左大臣に下げられる。 (江戸時代に太政大臣は摂関だけに限定。) 三条(さんじょう) 西園寺(さいおんじ) 徳大寺(とくだいじ) 久我(こが) 花山院(かざんいん) 大炊御門(おおいのみかど) 菊亭・今出川(きくてい。または、いまでがわ) の7家。 久我家は唯一、天皇の子孫の源氏の流れ。 (村上源氏) ほかはすべて摂関家に食い込めなかった藤原氏北家。 江戸時代に広幡家(ひろはた)と醍醐家(だいご)を追加した。 広幡家は第106代 正親町天皇の子孫の正親町源氏。 醍醐家は五摂家のひとつ一条家の分家。 |
3 | 大臣家 (だいじんけ) | 清華家の分家。 摂関家・清華家はなれない参議 -> 中納言とステップアップする家。 大納言・近衛大将を飛び越えて内大臣になる道もあった。 (まれに右大臣になる人もいた。) 太政大臣になることもできたが江戸時代に廃止。 正親町三条・嵯峨(おおぎまちさんじょう。のちにさが) -> 三条家の分家。藤原氏。 三条西(さんじょうにし) -> 正親町三条の分家。藤原氏。 中院(なかのいん) -> 久我の分家。村上源氏。 の3家。 |
4 | 羽林家 (うりんけ) | 近衛少将・中将になる。 参議 -> 中納言 -> 大納言にステップアップする家。 軍事を担当する。 江戸時代には大名家に与えられた。 藤原北家: 51家(上位や同じ羽林家からの分家) 藤原南家: 4家 村上源氏: 8家(久我の分家) 宇多源氏: 3家 数がいきなり増える。また、藤原南家、宇多源氏など、上位に見られない系統もある。 |
4 | 名家 (めいけ / めいか) | 序列は羽林家と同じ。 最高位も同じで大納言。 (例外で左大臣になる人もいた。) 天皇のお世話係の侍従・文書作成などの弁官から出世する。 羽林家は武門に対して名家は文官。 藤原北家: 25家 桓武平氏: 3家 平安末期にイケイケだった平家がひっそりと残る。 |
5 | 半家 (はんけ) | 大納言になった人がいるがほとんどが参議になってない。 (上流貴族でも政権中枢に入れない) 特殊技能を使って朝廷の仕事をした。 藤原北家: 2家 清和源氏: 1家 宇多源氏: 2家 花山源氏: 1家 桓武平氏: 2家 菅原氏(すがわら): 6家 清原氏(きよはら): 3家 大中臣氏(おおなかとみ): 1家 卜部氏(うらべ): 4家 安倍氏(あべ): 2家 丹波氏(たんば): 1家 大江氏(おおえ): 1家 いろいろな氏族が入っている。 菅原道真(すがわら の みちざね)の菅原氏、マイナーな源氏など。 清原氏は天皇の子孫。源氏よりも古く、飛鳥・奈良時代の天皇から分家した。 大中臣氏は藤原氏の祖先・中臣氏の流れ。藤原氏の本家筋。 古代から宮中祭祀を仕切る仕事をしてきた。 卜部氏は卜筮(ぼくぜい)という占い専門の集団。 安倍氏も天皇の子孫。第8代 孝元天皇の皇子・大彦命(おおひこ の みこと)の流れで天皇の子孫でもダントツに古い。 (神話の話で信憑性も薄い。) 安倍氏の系統・土御門家(つちみかどけ)は陰陽道を駆使した。 陰陽師・安倍晴明(あべ の せいめい)がいた家。 丹波氏は、第15代 応神天皇のころに来日した渡来系氏族の末裔。 坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)を出した坂上氏の分家。 医療技術(薬剤を含む)を駆使し多くの医者を出した。 大江氏は、古代からの氏族・土師氏(はじうじ)の分家と言われる。 土師氏は埴輪(はにわ)を開発した野見宿禰(のみ の すくね)から始まる土木技術を得意とした氏族。 (ちなみに、野見宿禰は日本最古の力士・相撲取りとも言われる。) 上流貴族にギリギリ入り込んだランクではあるが、氏族・得意分野のバリエーションが多く魅力的な集団。 |
表の6つのカテゴリは堂上家(どうじょうけ)といい、天皇の住居兼オフィスの清涼殿(せいりょうでん)に入ることが許された貴族。
堂上家は太政官の政権中枢の役職(中納言・大納言・右大臣・左大臣)になれる貴族で公卿(くぎょう)ともいう。
堂上家に対して、昇殿を許されない貴族もいた(江戸時代には460家以上)。地下家(じげけ)という。
また、堂上家(公卿)じゃないのに昇殿が許された人を殿上人(てんじょうびと)という。
これらのカテゴリは貴族の位階で決まっていた。
正一位 従一位 正二位 従二位 正三位 従三位 | 堂上家 | 無条件に清涼殿への出入りが許される。 政権中枢の人しかいない。 今でいうと、代々内閣の閣僚を務める家。 |
正四位上 正四位下 従四位上 従四位下 正五位上 正五位下 従五位上 従五位下 | 殿上人 | 本来は清涼殿への出入りは許されないが、天皇が認めた者だけ許された。 実態は堂上家が認め天皇が追認。 この中には太政官以外の、国司や検非違使、六衛府の長官なども含まれる。 今でいうと、内閣府も含め各省庁の長官で天皇に謁見が許される人がいたということ。 |
正六位上 以下 | 地下家 | 清涼殿への出入りが許されない。 |
朝廷の官職は位階によって決まるので、自動的に家柄で役職が決まった。
位階と官職はリンクしているので2つセットで官位(かんい)という。
五摂家(ごせっけ)
平安時代の摂関政治では摂政・関白になれる家は決まっていた。それを摂関家(せっかんけ)という。
鎌倉時代以降、摂関家の中でさらに摂政・関白になれる家柄がしぼられた。その5家のことを五摂家という。
- 近衛(このえ)
- 九条(くじょう)
- 二条(にじょう)
- 一条(いちじょう)
- 鷹司(たかつかさ)
くわしくは『摂関政治とは何か?』で。
五摂家は明治に入ってもつづき、華族制度ができてからは華族として位置づけられた。
1947年の華族制度の廃止まで、由緒ある家として知られていた。
国司(こくし)と郡司(ぐんじ)
国司
古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。
地方のすべての権限を持っていた。
京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)
送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏)
今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。
もってる力は絶大。
偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。
長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。
それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。
受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。
平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)
鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。
戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。
- 織田 上総介(かずさのすけ)信長
- 徳川 駿河守(するがのかみ)家康
織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。
織田信長が一番偉くないのが面白い。
郡司
市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。
大宝律令と養老律令
古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。
近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。
律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。
大宝律令(たいほうりつりょう)
701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。
中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。
第42代 文武天皇の時代。
(じっさいは持統上皇が行なった。)
大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。
養老律令(ようろうりつりょう)
718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。
大宝律令の改訂版。
突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。
養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)
撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。
天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。
養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。
養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良
撰定から施行まで40年もかかっている。
オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。
女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。
(大宝律令の持統上皇も女帝。)
(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)
嵯峨源氏は『政治家の源氏』
嵯峨源氏は政治家に多いです。中納言・大納言、右大臣、政権中枢からトップの左大臣になった人もいます。
政権中枢に置いておくほど優秀な政治家たちだったようです。そこは父親譲りなのかもしれません。
名前 | 治世 | |
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源信 (みなもと の まこと) | 第53代 淳和天皇 | 嵯峨天皇の皇子。 831年、22才で参議。(政権入り。) |
第54代 仁明天皇 | 842年、嵯峨上皇が亡くなったあと、中納言。 (『承和の変』直後) 848年、大納言。 | |
第55代 文徳天皇 | 850年、皇太子・惟仁親王の教育係就任。 857年、左大臣。 | |
源弘 (みなもと の ひろむ) | 第54代 仁明天皇 | 嵯峨天皇の皇子。 842年、弟・常の10年遅れで参議。 848年、中納言昇進。 |
第56代 清和天皇 | 859年、大納言。 | |
源常 (みなもと の ときわ) | 第53代 淳和天皇 | 嵯峨天皇の皇子。 嵯峨源氏の出世頭。 831年、嵯峨源氏で最初に公卿になる。(従三位) 832年、21才の若さで参議を経ずにいきなり中納言就任。 |
第54代 仁明天皇 | 838年、大納言。20代半ばで左大臣・右大臣に次ぐ政権ナンバー3になる。 840年、右大臣。同時に、皇太子・恒貞親王の教育係になる。 842年、『承和の変』で皇太子が変わるが教育係は継続。(皇太子・道康親王(文徳天皇))。 843年、左大臣が亡くなって政権トップに。 844年、左大臣。 | |
源定 (みなもと の さだむ) | 第53代 淳和天皇 | 嵯峨天皇の皇子。 叔父の淳和天皇の養子になる。 833年、19才で参議。 |
第54代 仁明天皇 | 養父・淳和天皇が亡くなると参議を辞職。 実父・嵯峨上皇が亡くなると官職を辞職。 無職に。 848年、参議に復帰。 | |
第56代 清和天皇 | 859年、大納言。 | |
源融 (みなもと の とおる) | 第55代 文徳天皇 | 856年、参議。 |
第56代 清和天皇 | 864年、中納言。 870年、大納言。 872年、左大臣。政権トップに。 | |
第57代 陽成天皇 | 876年、部下の右大臣・藤原基経(ふじわら もとつね)が摂政になったのにブチ切れて引きこもる。 | |
第58代 光孝天皇 | 884年、公務に復帰。 | |
第59代 宇多天皇 | 891年、関白・太政大臣・藤原基経が亡くなり再び政権トップに。 20年以上左大臣だった。 |
平安時代の初期は、藤原氏と嵯峨源氏のツートップ政権と言っていいほど、嵯峨源氏の元皇子たちは活躍しました。
政権トップの摂政・関白・太政大臣の藤原氏を除けば、嵯峨源氏政権と言ってもいいくらい。