令和になって、ますます皇位継承問題が活発になってきました。
そこで、皇別摂家(こうべつせっけ)という聞いたことのない言葉がでてきました。
かんたんにいうと『天皇の血筋を受け継いだ藤原氏』です。
藤原氏は天皇の子孫になってることはあまり知られていません。
藤原氏ってなにもの?
皇別摂家の前にちょっと復習から。
藤原氏は、大化の改新で中大兄皇子(なか の おおえ の みこ)と一緒に蘇我入鹿(そが の いるか)を暗殺した、中臣鎌足(なかとみ の かまたり。藤原鎌足)の子孫です。
平安時代に入ると朝廷の重要な役職をひとり占めしました。
歴史の授業では、これでもかっていうくらい『藤原』の人が出てくるので、だれが何をしたんだか分からない人もいるでしょう。
一族だから名前も似てるし。
それぐらい藤原氏の力は強大でした。
五摂家ってどういう家?
その藤原氏の中で、摂政・関白になれる特別な家がありました。それが五摂家です。
五摂家(ごせっけ)
平安時代の摂関政治では摂政・関白になれる家は決まっていた。それを摂関家(せっかんけ)という。
鎌倉時代以降、摂関家の中でさらに摂政・関白になれる家柄がしぼられた。その5家のことを五摂家という。
- 近衛(このえ)
- 九条(くじょう)
- 二条(にじょう)
- 一条(いちじょう)
- 鷹司(たかつかさ)
くわしくは『摂関政治とは何か?』で。
五摂家は明治に入ってもつづき、華族制度ができてからは華族として位置づけられた。
1947年の華族制度の廃止まで、由緒ある家として知られていた。
藤原氏の不動のトップ5です。
いよいよ本題、皇別摂家ってなに?
復習はこれぐらいにして、ここからが本題です。
皇別摂家(こうべつせっけ)は、歴史の専門家のなかでもマイナーな言葉らしい。天皇の血統だけを追いかけるのは歴史的な価値がないからでしょう。
江戸時代、五摂家のうち3家に天皇の息子や孫が養子に出されて、その養子が当主になりました。
五摂家の当主に皇族から別れた人がなる = 皇別摂家
と呼ばれるようになります。
五摂家 | 元皇族 | だれの子孫? |
---|---|---|
近衛 | 19代当主 近衞 信尋 (このえ のぶひろ) | 第107代 後陽成天皇 第4皇子 |
一条 | 14代当主 一条 昭良 (いちじょう あきよし) | 第107代 後陽成天皇 第9皇子 |
鷹司 | 21代当主 鷹司 輔平 (たかつかさ すけひら) | 閑院宮直仁親王 第4皇子 (第113代 東山天皇の孫) (直仁親王は東山天皇の第6皇子) |
『皇別摂家 = 天皇の子孫』ではない
ここで気をつけないといけないのは、
『皇別摂家 = 天皇の子孫』ではない
ということ。
皇別摂家はこのあとまた、よそから連れてきた養子が当主になったりして、いまの皇別摂家を継ぐ家の当主は天皇の男系子孫か分かりません。
日本では養子の出し合いが多く、家系図をみても血統までは分からず、血統だけを遡る(さかのぼる)のがむずかしいから。
そういう意味では、皇別摂家の血筋は、
天皇の子孫かもしれないけど、そうじゃないかもしれない。
いまの皇別摂家の本家は、少なくとも後陽成天皇・東山天皇の系統が当主になった元皇族の男系子孫ではありません。
別のラインでどこかの天皇につながる可能性はある。
『天皇の子孫 = 皇別摂家』ではない
逆に、天皇の子孫でも皇別摂家にならない場合があります。
たとえば、鷹司家・18代当主の鷹司房煕(たかつかさ ふさひろ)は、後陽成天皇の男系子孫・5世です。
房煕は皇別摂家になっていた近衛家から鷹司家に養子に出されました。
このとき近衛家の当主は、後陽成天皇の男系子孫だったので養子に出された鷹司家も天皇の男系子孫です。
でもこれは皇別摂家とはいいません。
血統はつながっても近衛家に生まれたので、あくまで近衛家から来た人としてあつかうからです。
このへんがややこしい。
皇別摂家じゃなくても天皇の男系子孫はたくさんいる
ほかにも、五摂家以外の公家、僧侶など天皇の男系子孫はたくさんいます。もちろん、これらは皇別摂家ではありませんし、なにか『皇』のつく特別な呼び方もしません。
あくまでそれぞれ養子に出された家の人
というあつかい。そもそも『皇別』という言葉は、
天皇から枝分かれ(別れ)した男系子孫の氏族
という意味です。天皇家じゃないところから他家に養子に出された人は皇別ではありません。血筋が天皇につながっても。
明治維新の功労者・岩倉具視(いわくら ともみ)は、第62代 村上天皇の流れをくむれっきとした天皇の子孫の家の出身。
(村上源氏)
源氏二十一流(げんじにじゅういちりゅう)
天皇の子孫の氏族の源氏には21の系統がある。その総称。
天皇の息子・孫を臣籍降下して民間人にするのに源(みなもと)姓は多く使われ、第52代 嵯峨天皇の息子から始まる。
平安時代の初期から中期にかけて、天皇は源氏を作るのが常識なほど一番多く作られた。
ペースは徐々に落ちていくが、戦国時代の第106代 正親町天皇の系統が江戸時代初期に作られたのが最後。
1 | 第52代 嵯峨天皇 | 嵯峨源氏 (さが) | 最初は、左大臣・右大臣など、藤原氏と並ぶ政治家一門だった。 徐々に藤原氏に押され有力政治家を出さなくなる。 渡辺氏、松浦氏、蒲池氏など知る人ぞ知る武士に残った程度。 |
2 | 第54代 仁明天皇 | 仁明源氏 (にんみょう) | 嵯峨源氏と同じく、藤原氏と並ぶ政治家一門だった。 仁明源氏の中から平氏に枝分かれしたのもいる。 (仁明平氏) 徐々に藤原氏に押され有力政治家を出さなくなり、その後目立った人は出ていない。 |
3 | 第54代 文徳天皇 | 文徳源氏 (もんとく) | 前例と同じく藤原氏と並ぶ政治家一門だった。 徐々に藤原氏に押され有力政治家を出さなくなり、その後目立った人は出ていない。 |
4 | 第56代 清和天皇 | 清和源氏 (せいわ) | 政治家としてはパッとしない。 国司や軍事専門の地方役人などに多くの人を輩出する。 それらが武士となり、日本最高の武家一門に成長する。 源頼朝、足利高氏など有力武将は数知れず。 貴族としては公卿にギリギリ滑り込んだ程度。 唯一残っていた竹内家がつづき明治に華族になった。 21の源氏の中でもっとも有名になった家。 村上源氏以外でただひとり、足利義満が太政大臣になった。 |
5 | 代57代 陽成天皇 | 陽成源氏 (ようぜい) | 多くの公卿を輩出する政治家一門だったが、これまでの源氏と比べ見劣りする。 その後も目立った貴族、武士などはいない。 |
6 | 代58代 光孝天皇 | 光孝源氏 (こうこう) | 最初は、中納言を輩出するなど政治家一門だったがフェードアウト。 その中でひとり、康尚(こうしょう)が仏師になり日本仏教彫刻の最大勢力、慶派(けいは)を作っていく。 鎌倉時代の有名な彫刻家、運慶・湛慶(うんけい・たんけい)もその子孫。 その他、数々の天才彫刻家は数知れず。 慶派は幕末の動乱まで仏師の主流だった。 (日本の彫刻界の中心だったと言ってもいい。) |
7 | 第59代 宇多天皇 | 宇多源氏 (うだ) | 最初は左大臣を出すなど政治家一門だったがフェードアウト。 鎌倉時代には綾小路家・大原家など公卿の中堅に多くを出した。 明治になると多くが華族になる。 佐々木氏など有力武士も多いが天下取りを争うほどではない。 |
8 | 第60 醍醐天皇 | 醍醐源氏 (だいご) | 最初は左大臣を出すなど政治家一門だったがフェードアウト。 その後、貴族ではあったが地下家(じげけ)で上流貴族になれていない。 地方に散らばり武士になった人も多いがメジャーではない。 |
9 | 第62代 村上天皇 | 村上源氏 (むらかみ) | 多くの源氏が朝廷でフェードアウトする中、最後まで上流貴族を保った。 (天皇の子孫の意地を見せた。) 藤原氏にかくれているが、貴族の源氏と言えば村上源氏というくらいの勢力。 源氏で最大の3人の太政大臣を出す。 明治維新の岩倉具視(いわくら ともみ)を出した。 武士では北畠氏(きたばたけ)を出した。 |
10 | 第63代 冷泉天皇 | 冷泉源氏 (れいぜい) | 作られた当初から存在感がない。 本当にあったのか? と思うほど。 |
11 | 第65代 花山天皇 | 花山源氏 (かざん) | ギリギリ上流貴族の半家に白川伯王家(しらかわはくおう)が残っただけ。 1家で頑張ってきたが昭和になって断絶した。 |
12 | 第67代 三条天皇 | 三条源氏 (さんじょう) | 貴族では最初からパッとしない。 僧侶や天皇の妻などになり目立たない。 |
13 | 第71代 後三条天皇 | 後三条源氏 (ごさんじょう) | ひとりだけ源氏になった源有仁(みなもと の ありひと)は左大臣までなったが後継者がいなくて断絶。 武士の中には後三条源氏を名乗るものがいたが自称の可能性が高い。 |
14 | 第77代 後白河天皇 | 後白河源氏 (ごしらかわ) | 反平家の挙兵をした以仁王(もちひとおう)ひとりだけ。 皇籍を剥奪され懲罰で源氏になった。 討伐軍に追われて戦死。 |
15 | 第84代 順徳天皇 | 順徳源氏 (じゅんとく) | ひとり左大臣を出した。 室町幕府 第3代 将軍・足利義満(あしかが よしみつ)のときに最後の一人が出家してしまい断絶。 |
16 | 第88代 後嵯峨天皇 | 後嵯峨源氏 (ごさが) | 源惟康(みなもと の これやす)ひとりだけ。 鎌倉幕府 第7代 征夷大将軍になる。 親王のままの将軍は都合が悪いから源氏になった可能性が高い。 |
17 | 第89代 後深草天皇 | 後深草源氏 (ごふかくさ) | 鎌倉幕府 第8代 将軍・久明親王(ひさあきら)の孫が源氏になる。 大納言にまでなったがあとが続いていない。 |
18 | 代90代 亀山天皇 | 亀山源氏 (かめやま) | 特筆する人はない。 |
19 | 第84代 後二条天皇 | 後二条源氏 (ごにじょう) | 特筆する人はいない。 |
20 | 第96代 後醍醐天皇 | 後醍醐源氏 (ごだいご) | 後醍醐天皇の孫が源氏になったと言われるが、詳細がない。 (信憑性はないかも?) 武家の大橋氏、神社を代々守る社家の氷室氏など末裔を名乗る氏族はいる。 |
21 | 第106代 正親町天皇 | 正親町源氏 (おおぎまち) | 正親町天皇は織田信長・豊臣秀吉のころの天皇だが、江戸時代にその子孫が源氏になる。 広幡家(ひろはた) 摂関家に次ぐ清華家になるなど格別の待遇を受けた。 明治になると華族になる。 |
源氏として活躍したのは平安中期までに作られた源氏で、村上源氏で勢いは止まる。
その後は活躍する人が出ていない。鎌倉時代は幕府の将軍が大きく関係している。
臣籍降下(しんせきこうか)
皇族が臣下の籍に降りること。
皇族が民間人になって皇室から離れること。
奈良時代は罰として皇籍剥奪として行われることもあり、反省して許されると皇族に戻ることもあった。
平安時代以降は、貴族だけでなく仏門に入る人も増え、皇族数の調整弁に使われることが多くなった。
貴族の家格(かかく)
平安時代になると特定の家が要職を占めるようになる。
鎌倉時代になると貴族のランクが家単位で固まった。それを家格という。
1 | 摂関家 (せっかんけ) | 摂政、関白、太政大臣になる。 五摂家。 すべて藤原北家の流れ。 |
2 | 清華家 (せいがけ) | 摂政・関白はなれないが、太政大臣になる道があった。 江戸時代には最高位が左大臣に下げられる。 (江戸時代に太政大臣は摂関だけに限定。) 三条(さんじょう) 西園寺(さいおんじ) 徳大寺(とくだいじ) 久我(こが) 花山院(かざんいん) 大炊御門(おおいのみかど) 菊亭・今出川(きくてい。または、いまでがわ) の7家。 久我家は唯一、天皇の子孫の源氏の流れ。 (村上源氏) ほかはすべて摂関家に食い込めなかった藤原氏北家。 江戸時代に広幡家(ひろはた)と醍醐家(だいご)を追加した。 広幡家は第106代 正親町天皇の子孫の正親町源氏。 醍醐家は五摂家のひとつ一条家の分家。 |
3 | 大臣家 (だいじんけ) | 清華家の分家。 摂関家・清華家はなれない参議 -> 中納言とステップアップする家。 大納言・近衛大将を飛び越えて内大臣になる道もあった。 (まれに右大臣になる人もいた。) 太政大臣になることもできたが江戸時代に廃止。 正親町三条・嵯峨(おおぎまちさんじょう。のちにさが) -> 三条家の分家。藤原氏。 三条西(さんじょうにし) -> 正親町三条の分家。藤原氏。 中院(なかのいん) -> 久我の分家。村上源氏。 の3家。 |
4 | 羽林家 (うりんけ) | 近衛少将・中将になる。 参議 -> 中納言 -> 大納言にステップアップする家。 軍事を担当する。 江戸時代には大名家に与えられた。 藤原北家: 51家(上位や同じ羽林家からの分家) 藤原南家: 4家 村上源氏: 8家(久我の分家) 宇多源氏: 3家 数がいきなり増える。また、藤原南家、宇多源氏など、上位に見られない系統もある。 |
4 | 名家 (めいけ / めいか) | 序列は羽林家と同じ。 最高位も同じで大納言。 (例外で左大臣になる人もいた。) 天皇のお世話係の侍従・文書作成などの弁官から出世する。 羽林家は武門に対して名家は文官。 藤原北家: 25家 桓武平氏: 3家 平安末期にイケイケだった平家がひっそりと残る。 |
5 | 半家 (はんけ) | 大納言になった人がいるがほとんどが参議になってない。 (上流貴族でも政権中枢に入れない) 特殊技能を使って朝廷の仕事をした。 藤原北家: 2家 清和源氏: 1家 宇多源氏: 2家 花山源氏: 1家 桓武平氏: 2家 菅原氏(すがわら): 6家 清原氏(きよはら): 3家 大中臣氏(おおなかとみ): 1家 卜部氏(うらべ): 4家 安倍氏(あべ): 2家 丹波氏(たんば): 1家 大江氏(おおえ): 1家 いろいろな氏族が入っている。 菅原道真(すがわら の みちざね)の菅原氏、マイナーな源氏など。 清原氏は天皇の子孫。源氏よりも古く、飛鳥・奈良時代の天皇から分家した。 大中臣氏は藤原氏の祖先・中臣氏の流れ。藤原氏の本家筋。 古代から宮中祭祀を仕切る仕事をしてきた。 卜部氏は卜筮(ぼくぜい)という占い専門の集団。 安倍氏も天皇の子孫。第8代 孝元天皇の皇子・大彦命(おおひこ の みこと)の流れで天皇の子孫でもダントツに古い。 (神話の話で信憑性も薄い。) 安倍氏の系統・土御門家(つちみかどけ)は陰陽道を駆使した。 陰陽師・安倍晴明(あべ の せいめい)がいた家。 丹波氏は、第15代 応神天皇のころに来日した渡来系氏族の末裔。 坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)を出した坂上氏の分家。 医療技術(薬剤を含む)を駆使し多くの医者を出した。 大江氏は、古代からの氏族・土師氏(はじうじ)の分家と言われる。 土師氏は埴輪(はにわ)を開発した野見宿禰(のみ の すくね)から始まる土木技術を得意とした氏族。 (ちなみに、野見宿禰は日本最古の力士・相撲取りとも言われる。) 上流貴族にギリギリ入り込んだランクではあるが、氏族・得意分野のバリエーションが多く魅力的な集団。 |
表の6つのカテゴリは堂上家(どうじょうけ)といい、天皇の住居兼オフィスの清涼殿(せいりょうでん)に入ることが許された貴族。
堂上家は太政官の政権中枢の役職(中納言・大納言・右大臣・左大臣)になれる貴族で公卿(くぎょう)ともいう。
堂上家に対して、昇殿を許されない貴族もいた(江戸時代には460家以上)。地下家(じげけ)という。
また、堂上家(公卿)じゃないのに昇殿が許された人を殿上人(てんじょうびと)という。
これらのカテゴリは貴族の位階で決まっていた。
正一位 従一位 正二位 従二位 正三位 従三位 | 堂上家 | 無条件に清涼殿への出入りが許される。 政権中枢の人しかいない。 今でいうと、代々内閣の閣僚を務める家。 |
正四位上 正四位下 従四位上 従四位下 正五位上 正五位下 従五位上 従五位下 | 殿上人 | 本来は清涼殿への出入りは許されないが、天皇が認めた者だけ許された。 実態は堂上家が認め天皇が追認。 この中には太政官以外の、国司や検非違使、六衛府の長官なども含まれる。 今でいうと、内閣府も含め各省庁の長官で天皇に謁見が許される人がいたということ。 |
正六位上 以下 | 地下家 | 清涼殿への出入りが許されない。 |
朝廷の官職は位階によって決まるので、自動的に家柄で役職が決まった。
位階と官職はリンクしているので2つセットで官位(かんい)という。
五摂家(ごせっけ)
平安時代の摂関政治では摂政・関白になれる家は決まっていた。それを摂関家(せっかんけ)という。
鎌倉時代以降、摂関家の中でさらに摂政・関白になれる家柄がしぼられた。その5家のことを五摂家という。
- 近衛(このえ)
- 九条(くじょう)
- 二条(にじょう)
- 一条(いちじょう)
- 鷹司(たかつかさ)
くわしくは『摂関政治とは何か?』で。
五摂家は明治に入ってもつづき、華族制度ができてからは華族として位置づけられた。
1947年の華族制度の廃止まで、由緒ある家として知られていた。
ただし、岩倉家は村上源氏から枝分かれした家だし、どこかで養子が当主になった可能性もあるので、岩倉具視が村上天皇の血統を受け継いでいるかは分からない。
『皇別』は平安時代のはじめに300氏以上いた!
『皇別』は平安時代からある言葉です。平安時代のはじめころ、第52代 嵯峨天皇が
新撰姓氏録
(しんせんしょうじろく)
をつくらせました。(815年)
これは『氏』がどこからきたのか?先祖はだれなのかをまとめた書物です。そのなかで、氏を大きく3つに分けました。
皇別 (こうべつ) | 省略。 |
神別 (しんべつ) | 神話のカミの世界からつづく氏族。 先祖が天皇につながるかは関係ない。 初代 神武天皇より前に天皇家につながる人がいるかも? |
諸蕃 (しょばん) | 朝鮮や中国などから渡来してきた氏族。 |
ビックリです。このときすでに天皇の男系子孫の氏族は335もあり、1/3は天皇の子孫だと言っています。嵯峨天皇がつくらせて認めたことなので公式見解。
もうひとつ、1 / 3 は渡来人。今でいうと在日外国人の子孫。
日本人のDNAは純血ではない。
さらに古代の歴史書『古事記』では、201出てくる氏族のうち175氏は天皇の子孫だとされている。
古事記と日本書紀(こじき。にほんしょき)
第40代 天武天皇が号令をかけて作った国家の歴史書。ふたつあわせて記紀(きき)いう。
それ以前の歴史書は、焼失や理由の分からない消失でいまは存在しない。
天武天皇の息子・川島皇子(かわしま の みこ)、忍壁皇子(おさかべ の みこ)が編集長になり作業をはじめた。
そのときにまとめたのが帝紀と旧辞と言われる。
帝紀と旧辞
帝紀 (ていき) | 天皇の系譜、功績をまとめたもの。 |
旧辞 (きゅうじ) | 各氏族の系譜をまとめたもの。 氏族や民など、いろいろな人々に伝わる伝承をまとめた。 日本書紀に出てくる『上古諸事』は旧辞を指すとも。 |
帝紀と旧辞は一体だったとも言われはっきりせず、ふたつとも現存しない。
当時、重要な情報は覚えて口伝えする職業(誦習者。しょうしゅうしゃ)があり、稗田阿礼(ひえだ の あれい)が帝紀・旧辞を覚えた。
帝紀と旧辞が古事記と日本書紀の基本資料になり、飛鳥時代以前の歴史は、古事記、日本書紀にたよる。
古事記(こじき。ふことふみ)
帝紀・旧辞を稗田阿礼に誦習させたが、天武天皇が亡くなると作業が中断した。
712年(和銅5)、第43代 元明天皇のとき、太安万侶(おお の やすまろ)が阿礼の記憶、帝紀・旧辞から文字起こしして書物にまとめたのが古事記。
20年以上の中断があり完成に30年以上かかった。
(阿礼は、帝紀・旧辞だけでなく、無くなっていた数々の歴史書も覚えていた暗記の天才と言われる。)
日本書紀(にほんしょき)
完成は古事記よりもおそく、720年(養老4)、第44代 元正天皇のころに完成。
中断していたのか?たんに時間がかかったのか? 完成までの経緯はよく分かっていない。
天武天皇の息子・舎人皇子(とねり の みこ)が編集長。
古事記 | 倭語を漢字にあてた。 『夜露死苦』(よろしく)みたいに。 国内向け。 国家統一に利用するためか? |
日本書紀 | 漢字で書かれた。 (中国人でも読める。) 国外向け。 世界に日本をアピールするために利用か? |
皇別摂家は旧宮家より天皇と血統が近い
近衛家は、天皇の男系の血筋をほんの数十年前まで継いでいました。
日中戦争開戦時の総理大臣・近衛文麿(このえ ふみまろ)は、後陽成天皇の男系子孫・12世です。
近衛文麿がれっきとした天皇の子孫だというのはあまり知られていません。
後陽成天皇は豊臣秀吉の政権・徳川家康が幕府を開いたときの天皇。
近衛家の人は幕末の歴史でしょっちゅう出てきます。あの人たちも天皇の子孫だったんですね?
最近よく聞く1947年に民間人になった旧宮家の人たちよりも、今上陛下と血統が近い男系子孫は知らないところでたくさんいます。
(皇別摂家から独立した、養子に出された、僧になった人たちの子孫。)
旧宮家の人たちは室町・南北朝時代の北朝・第3代 崇光天皇までいかないとつながりません。
皇別摂家は旧宮家よりも天皇と血統が近い。
近衛文麿は昭和天皇に謁見するとき、椅子に座って足を組んで待っていたというエピソードがある。
(ありえない。直立不動で待つのが普通。)
文麿が天皇の子孫だと分かると納得です。文麿からすると、
『家がちがうだけじゃねーか。』
『血統が同じでオレのほうが世代は上だし。先輩じゃん。』
(文麿は昭和天皇の親、下手すると祖父さんの世代。)
『なんでこんな若造に頭を垂れないといけないんだ?』
ぐらいに思っても不思議じゃない。
天皇の子孫はどこにでもいる
皇別摂家
旧宮家
これらは天皇の血統を探すときに出てきますが、血統だけを探すのなら日本全国どこにでもいます。皇別摂家、旧宮家だけではありません。
815年の時点で天皇の子孫が300氏以上あるんですから、その子孫たちは膨大です。
(古事記を信じるなら、天皇の子孫じゃない方がめずらしい。)
日本は、
皇胤国家
とも呼ばれます。
皇胤(こういん)は天皇の血統をもった人のこと。日本は天皇の子孫たちの国と言ってるんですね?
天皇の血統だけを追うのは歴史的価値がない意味がわかります。だってどこを見ても天皇の子孫だらけなんだもん。
一休さんでおなじみの一休宗純は、後小松天皇の落胤(らくいん。おとしだね)という有名な話がある。
(うわさ? 実話?)
落胤は側室よりも身分が低い女性が産んだ子ども。認知されなかった愛人の子ですね?
皇胤国家という言葉があるくらいなので真実かもしれない。