日本の歴代天皇は、初代から数えて126代存在してきました。暗殺された人、女性天皇、2回天皇になる人、この人は大丈夫か?という人、いろいろな個性をもった天皇がいました。
個人的には花山天皇が好きなんですが、この人はヤバい。TVや教科書で絶対に紹介できない。そういうぶっ飛びすぎて面白い天皇もいます。
追記していくごとに、天皇の名前のところにリンクを貼っていきます。ただ124人もの天皇がいるので、どれだけ進めていけるのか分かりません。(いま鎌倉時代に入ったところ。残りは20人弱。)
先史 神話の時代 - 人代(ひとのよ) -
伝承上の天皇
最初の10人は、歴史では存在が確認されていません。
焼失などで無くなった書物の覚えていたところや口伝えで残っていた話を、日本書紀や古事記にまとめたことで伝えられます。
日本書紀や古事記には、作られた時代の習慣などが入っていて、それより古い時代のエピソードは、編纂者の創造、まちがいがあると指摘されます。
歴史学や考古学の進歩で、神話が歴史に変わったり、また神話が否定されたりと、どんどん変化していく魅力のある時代です。
1 | 神武 | じんむ | 紀元前 660? | 初代天皇。お祖父さんなどの先祖は神話でも 有名なカミサマ。 人間とカミサマをつなぐ存在。 |
2 | 綏靖 | すいぜい | 紀元前 581? | 欠史八代。 登場する数少ない資料の日本書紀・古事記で さえ記述が少なく、歴史が欠けているとされ る。 |
3 | 安寧 | あんねい | 紀元前 548? | 欠史八代。 |
4 | 懿徳 | いとく | 紀元前 510? | 欠史八代。 |
5 | 孝昭 | こうしょう | 紀元前 475? | 欠史八代。 |
6 | 孝安 | こうあん | 紀元前 392? | 欠史八代。 |
7 | 孝霊 | こうれい | 紀元前 290? | 欠史八代。 桃太郎のモデルのお父さん。 |
8 | 孝元 | こうげん | 紀元前 214? | 欠史八代。 |
9 | 開化 | かいか | 紀元前 157? | 欠史八代。 |
古事記と日本書紀(こじき。にほんしょき)
第40代 天武天皇が号令をかけて作った国家の歴史書。ふたつあわせて記紀(きき)いう。
それ以前の歴史書は、焼失や理由の分からない消失でいまは存在しない。
天武天皇の息子・川島皇子(かわしま の みこ)、忍壁皇子(おさかべ の みこ)が編集長になり作業をはじめた。
そのときにまとめたのが帝紀と旧辞と言われる。
帝紀と旧辞
帝紀 (ていき) | 天皇の系譜、功績をまとめたもの。 |
旧辞 (きゅうじ) | 各氏族の系譜をまとめたもの。 氏族や民など、いろいろな人々に伝わる伝承をまとめた。 日本書紀に出てくる『上古諸事』は旧辞を指すとも。 |
帝紀と旧辞は一体だったとも言われはっきりせず、ふたつとも現存しない。
当時、重要な情報は覚えて口伝えする職業(誦習者。しょうしゅうしゃ)があり、稗田阿礼(ひえだ の あれい)が帝紀・旧辞を覚えた。
帝紀と旧辞が古事記と日本書紀の基本資料になり、飛鳥時代以前の歴史は、古事記、日本書紀にたよる。
古事記(こじき。ふことふみ)
帝紀・旧辞を稗田阿礼に誦習させたが、天武天皇が亡くなると作業が中断した。
712年(和銅5)、第43代 元明天皇のとき、太安万侶(おお の やすまろ)が阿礼の記憶、帝紀・旧辞から文字起こしして書物にまとめたのが古事記。
20年以上の中断があり完成に30年以上かかった。
(阿礼は、帝紀・旧辞だけでなく、無くなっていた数々の歴史書も覚えていた暗記の天才と言われる。)
日本書紀(にほんしょき)
完成は古事記よりもおそく、720年(養老4)、第44代 元正天皇のころに完成。
中断していたのか?たんに時間がかかったのか? 完成までの経緯はよく分かっていない。
天武天皇の息子・舎人皇子(とねり の みこ)が編集長。
古事記 | 倭語を漢字にあてた。 『夜露死苦』(よろしく)みたいに。 国内向け。 国家統一に利用するためか? |
日本書紀 | 漢字で書かれた。 (中国人でも読める。) 国外向け。 世界に日本をアピールするために利用か? |
先史・古代 古墳時代
ヤマトの王たち
第10代 崇神天皇は、考古学、歴史学の研究で本当にいただろうと言われます。崇神天皇から実在の天皇としてよいでしょう。
(中国の歴史書に登場する第21代 雄略天皇から実在説も根強い。)
いわゆる古墳時代で、古墳がいつから作られたか諸説あるので『いわゆる』。
このあたりから日本列島に『国家』があらわれます。(ヤマト王権の中央集権化)
仁徳天皇から雄略天皇までは倭の五王の天皇とされますが確定していません。
倭の五王(わのごおう)
中国の『宋書』に書かれた日本の5人の王のこと。
5世紀のおよそ100年間、日本が中国に貢ぎ物をして、その見返りに王の称号をもらっていた。
それが5人の天皇だったといわれている。(確定していない。)
また、中国の将軍にも任命されていた。
宋書の王 | 与えられた将軍 | 天皇 |
---|---|---|
倭国王・讃 (さん) | ??? | 第16代 仁徳天皇 |
倭国王・珍 (ちん) | 安東将軍 | 第18代 反正天皇 |
倭国王・済 (せい) | 安東将軍 | 第19代 允恭天皇 |
倭国王・興 (こう) | 安東将軍 | 第20代 安康天皇 |
倭国王・武 (ぶ) | 安東大将軍 ↓ 鎮東大将軍 ↓ 征東大将軍? | 第21代 雄略天皇 |
ランク | 将軍 | ランクイメージ |
---|---|---|
1 | 車騎将軍 | 皇帝直属の将軍。 中国軍本体。 戦車・騎馬隊? |
2 | 征東大将軍 | 東部方面司令の大将 |
3 | 鎮東大将軍 | 東部方面司令の中将 |
4 | 安東大将軍 | 東部方面司令の少将 |
5 | 征東将軍 | 東部方面司令の大佐 |
6 | 鎮東将軍 | 東部方面司令の中佐 |
7 | 安東将軍 | 東部方面司令の少佐 |
※ 中国からみた東国を担当する将軍。
※ 『東を征服する』『東を鎮圧する』『東を安定させる』の順にランク付け。
これが日本と中国の本格的な外交のはじまりで、将軍は中国皇帝の部下なので中国の属国になる。安東将軍はランクが低い。
(日本は朝鮮王より低いランクから始まった。それからランクアップしていく。最終的に朝鮮に並んだとかいないとか。このへんは微妙。)
天皇のまわりの豪族たちにも欲しいと日本から要求したので、称号は天皇以外ももらっていた。
九州などの豪族たちも、ヤマトを無視して称号をもらっていたとされる。
損をしているように見えるが、中国の世界最先端の技術・文明が日本に入ってきた。
このとき、母系社会の日本に男尊女卑・男系思想が入ってきたと言われる。
当時の中国は南北朝時代で、日本は南朝の宋(劉宋)と国交を結んでいた。
(北朝はすぐに東西に分裂し南朝よりも不安定だった。)
西暦201~269年まで天皇は不在で、69年間リーダーだったのは神功皇后(じんぐうこうごう)です。
第15代天皇に数えられていましたが、大正15年10月の詔書で歴代天皇から外れました。いまでは神功皇后の称制だったとされます。
この時代は、考古学や歴史学の進歩で新しい発見が出てきてとても面白いです。これからも新しい常識が生まれることがあるでしょう。
10 | 崇神 | すじん | 紀元前 97 | 実在が確認されたいちばん古い天皇。 じっさいは3世紀の人だといわれる。 日本列島ではじめて国家を作った。 (ヤマト王権の創設者) 中興の祖。 シャーマニズムで政治を行なう。 (女王・卑弥呼の政治と同じようなもの) |
11 | 垂仁 | すいにん | 紀元前 29 | 2代目・ヤマト王権リーダー。 皇后が禁断の愛で天皇に殺されてしまう。 |
12 | 景行 | けいこう | 71 | 日本武尊(やまとたける の みこと)の父。 ヤマト王権が弱り各地で抵抗される。 日本武尊が武力で制圧。 |
13 | 成務 | せいむ | 131 | 都道府県・市区町村のような地方のグループ 分けをはじめて行なう。 首長(今でいう知事)をはじめて任命する。 |
14 | 仲哀 | ちゅうあい | 192 | ヤマトタケルの子。 カミのお告げを無視して死んでしまう。 熊襲討伐に失敗して九州で戦死したともいわ れる。 |
- | 神功皇后 | じんぐう | 201 | 仲哀天皇の妃で応神天皇の母。 仲哀天皇の崩御で皇后のまま天皇の職務を引 き継ぐ。 古事記で記される最大のヒロイン。 |
15 | 応神 | おうじん | 270 | 父・仲哀天皇を殺したカミに後継者に指名さ れる。 ヤマト王権に朝鮮から最新技術・文化を取り 入れた。 本格的な朝鮮外交の始まり。 儒教が日本に伝わる。 |
16 | 仁徳 | にんとく | 313 | 顔よし、性格よし、仕事ができる。 天皇のかがみと言われる聖帝。 超絶・恐妻にふりまわされる。 |
17 | 履中 | りちゅう | 400 | 父・仁徳天皇の皇太子だったが、父が亡くな ると弟に殺されかけて都を捨てて逃げる。 即位したあとは見事に聖帝の仕事を引きつぐ 。 |
18 | 反正 | はんぜい | 406 | 歯並びが美しすぎて一本歯に見えた天皇。 中国から安東将軍、倭国王・珍を与えられた とされる。 |
19 | 允恭 | いんぎょう | 412 | はじめて三種の神器を継承していることが確 認される。 中国から安東将軍・倭国王・済を与えられた とされる。 |
20 | 安康 | あんこう | 454 | 臣下にだまされて叔父さんを殺し、その復讐 で暗殺される。 史上初の暗殺された天皇。 中国から安東将軍・倭国王・興を与えられた とされる。 |
シャーマニズム(Shamanism)
宗教のひとつのかたち。
神のお告げや占い・呪術で悩みや未来の不安を解決する。これを行なう人をシャーマンという。
日本の土着宗教・神道もシャーマニズム。巫女、イタコ、陰陽師は日本のシャーマン。
日本人の占い好きはシャーマニズムの影響。
皇統断絶の危機
第21代 雄略天皇は、身近な皇族たちを皆殺ししていった歴代でもトップクラスの悪王と呼ばれた天皇です。
これをきっかけに皇統断絶の危機を作りました。
(その前の安康天皇が暗殺されているので殺伐とした雰囲気はすでに始まっていた。)
その後の天皇も幼いときに亡命して下人になっていたところから即位するなど、正体が怪しい人ばかりです。
下人(げにん)
主人に仕える身分の低い人。
第25代 武烈天皇で、初代神武天皇からつづいてきた直系継承が途絶えます。
王朝交代が起きたのではないかという説がありますが、諸説の域を超えていません。
このあたりの天皇たちはエピソード的には面白んですが、本当にいたのか? ほんとうに皇族だったのか? という疑問が消えず、そう思われてもしかたない話だらけの天皇たちです。
個人的には、このへんの歴史学・考古学が進展すれば、びっくり仰天にひっくり返るほどの可能性を秘めていると思う。
21 | 雄略 | ゆうりゃく | 456 | 気に入らない人はことごとく殺す、手に 負えない短気。 ライバルの皇子たちを皆殺しして、皇統 断絶危機のきっかけを作る。 歴代天皇のなかでも1,2位を争う大悪人 。 |
22 | 清寧 | せいねい | 480 | 皇族同士の殺し合いのあと即位。 皇后ももたず子供もいない。 若いころから髪が白かったといわれる。 |
- | 飯豊女王 | いいどよのひめみこ | 485? | 天皇のなり手がいないときピンチヒッタ ーだった皇女。 古事記では天皇としてあつかわれる幻の 女帝。 『飯豊天皇』ともいわれる。 |
23 | 顕宗 | けんぞう | 485 | 雄略天皇に殺された磐坂市辺押磐皇子の 息子。 雄略天皇が亡くなるまで亡命し正体をか くしていた。 兄(仁賢天皇)がいたが、お互いに譲り 合って即位。 |
24 | 仁賢 | にんけん | 488 | 弟から皇位を継承しためずらしい天皇。 皇太子時代に弟・顕宗天皇の皇后から壮 絶なイジメにあう。 |
25 | 武烈 | ぶれつ | 498 | 日本書紀では極悪非道の悪王とされる。 持ってるエピソードがホラー、マニアで グロいセクシー動画級。 これは、聖帝・仁徳天皇の系統を断絶さ せた責任をとらせるために作られたフィ クションというのが通説。 |
いまでもつづく直系継承のはじまり
直系継承が途絶えたため、第15代 応神天皇から5世はなれた、傍系の子孫・第26代 継体天皇が即位します。
継体天皇は、即位したとき都にすら住んでいませんでした。今の福井県で暮らしていて19年かけて都へ移動します。
5世というとイメージしづらいですが、平将門(たいらのまさかど)が上京して天皇になると思えば、どれだけ武烈天皇の直系からはなれていたか分かります。
(継体天皇からの直系継承が今でもつづいている。)
継体天皇には王朝交代説がありますが、皇統は初代から今でもつづいているというのが宮内庁の公式見解です。
26 | 継体 | けいたい | 507 | 50代後半の福井のおじいちゃんが、いきなり 天皇になる。 歴代天皇で一番血統が遠い天皇の即位。 王朝交代説もあるがじっさいは入り婿。 |
27 | 安閑 | あんかん | 531 | 40過ぎの福井のオッサンが皇太子になり天皇 になる。 だれもが認める人格者。 多くの屯倉を作る。 |
28 | 宣化 | せんか | 536 | アラフォーの福井のオッサンが、まわりの流 れに乗って気づいたら天皇になる。 |
29 | 欽明 | きんめい | 539 | 古墳時代の最大のターニングポイント。 飛鳥・奈良時代につながる変化がたてつづけ に起きる。 仏教伝来。 朝鮮半島有事。 蘇我氏 vs 物部氏。 |
30 | 敏達 | びだつ | 572 | 蘇我氏 vs 物部氏のバランスをとるのに必死 で自分が主役になれず。 でも嫁は最強(史上初の女帝・推古天皇) |
31 | 用明 | ようめい | 585 | 在位期間3年で何もできず。 仏教を信奉した最初の天皇。 厩戸皇子(うまやどのみこ。聖徳太子)の 父。 |
32 | 崇峻 | すしゅん | 587 | 蘇我馬子と対立して暗殺される。 |
屯倉(みやけ)
ヤマト王権が地方につくった直轄領。その後の地方支配の基礎になったと言われる。
古代 飛鳥時代
天皇の『歴史』の始まり
崇峻天皇より前は、時代が古くなるほど天皇の生まれた年、即位した年がはっきりしません。
これは、第33代 推古天皇の時代から数えて1260年さかのぼった年を、初代・神武天皇の即位年(紀元前660年)にしたからで、崇峻天皇以前の天皇の年齢・在位期間は、この数字とつじつまを合わせるために決めたという指摘があるほどです。
はっきり分かっているのは推古天皇から。推古天皇より前は正確には天皇ではなく大王(おおきみ)と呼ばれた王でした。
王から天子(のちに天皇と呼ぶ。対外的にはエンペラー)に格上げしたのも推古天皇からです。
歴史ではっきり断定できる天皇は推古天皇からです。
また飛鳥・奈良時代は、あたりまえのように女帝が即位しています。第32代から第49代までの18代の天皇のうち8人10代が女帝です。
半数以上が女帝だったことは忘れてはいけません。
33 | 推古 | すいこ | 592 | 崇峻天皇暗殺の黒幕・蘇我馬子の後ろ盾で、 姪っ子の額田部皇女が即位。 日本で最初の女帝。 甥・聖徳太子(厩戸皇子)を摂政にして、い っしょに政務を行なった。 大王(おおきみ)から天子(後の天皇)に格 上げし、日本が外国と対等になるための独立 を宣言する。 最後の蘇我系天皇。 |
34 | 舒明 | じょめい | 629 | 聖徳太子の皇子・山背大兄皇子と並んで推古 天皇に信頼された田村皇子が即位。 つかの間の朝鮮半島平和外交を行う。 妻は最恐の宝皇女(皇極天皇)。 |
35 | 皇極 | こうぎょく | 642 | 息子・中大兄皇子が蘇我入鹿を殺害するのを 目の前で目撃する。(乙巳の変) 歴代天皇ではじめて譲位(生前退位)する。 歴代天皇の史上初3冠達成。 |
36 | 孝徳 | こうとく | 645 | 日本ではじめて元号を使う。大化(たいか) 。はじめての改元。大化 -> 白雉(はくち) 難波遷都、大化の改新など大改革をおこなう 。 これだけ功績があるのにイジメられて総スカ ン食らって退位をきめる。 そのまま病気になって孤独死。 |
37 | 斉明 | さいめい | 655 | 皇極天皇と同一人物。 退位していた皇極天皇がふたたび天皇に即位 。(重祚) 歴代天皇の中で初めて重祚した天皇。 |
38 | 天智 | てんじ | 668 | 中大兄皇子(なか の おおえ の みこ)。 20才のとき乙巳の変を起こす。 人生のほとんどを皇太子ですごし即位したの は42才。 |
39 | 弘文 | こうぶん | 671 | 大友皇子(おおとも の みこ)。 天智天皇の皇子。 壬申の乱に敗れて亡くなってしまう。 明治3年まで歴代天皇に入ってなかった。 即位していたのか?いまでも意見が分かれる 。 |
40 | 天武 | てんむ | 673 | 大海人皇子(おおあまのおうじ)。 天智天皇の弟。 壬申の乱で甥・大友皇子と戦い勝利する。 律令国家建設の号令をかけて亡くなる。 日本書紀・古事記の編纂を始めた。 |
41 | 持統 | じとう | 690 | 天皇という呼称、国号・日本を制定。 新国家・日本を整備するのに尽力する。 孫の文武天皇に皇位を譲位し、歴代天皇では じめて太上天皇(上皇)になる。 藤原京遷都。 国家・日本の母。 |
42 | 文武 | もんむ | 679 | おばあちゃんが用意したものでごっつぁんゴ ールを決める。 大宝律令の撰定・施行。 はじめて正妻を藤原氏から迎える。 |
律令(りつりょう)
律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。
7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。
日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。
律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。
重祚(ちょうそ)
一度退位した天皇が再び天皇になること。二度目のときの名前は新しくつけられる。
男性天皇は1人も重祚していない。女帝だけ。
壬申の乱(じんしんのらん)
天智天皇の弟・大海人皇子(おおあま の みこ)と息子・大友皇子(おおとも の みこ)のだれが天皇になるのかの争い。
古代最大の内乱。
両軍ともに皇位継承権のある皇族が大将になり指揮した戦で国を2分した。日本の歴史上、ここまで国を分けた戦いはない。
大海人皇子は皇太弟、大友皇子は太政大臣だった。
天智天皇は大海人皇子を指名したが、皇子が断って吉野(和歌山)に引っ込んだことが原因。
672年(天武元)7月24日、大海人皇子は、大友皇子に反乱の罪をきせられると思い、先手を打って挙兵、勝利して第40代 天武天皇になる。
どっちが裏切ったのか、正義があるのかは意見が分かれる。
古代の資料は日本書紀・古事記からだが、天武天皇が号令をかけて作られたので、大海人皇子に都合の悪いものは書けなかったともいわれる。
(ここに書いた内容も日本書紀から。)
大友皇子は、歴代天皇に入ってなかったが、明治3年、明治天皇が『弘文天皇』という諡をおくって歴代天皇に加わった。
いまは、どっちがよかった、悪かったという評価ができるほど事実が分かっていない。
大宝律令と養老律令
古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。
近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。
律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。
大宝律令(たいほうりつりょう)
701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。
中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。
第42代 文武天皇の時代。
(じっさいは持統上皇が行なった。)
大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。
養老律令(ようろうりつりょう)
718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。
大宝律令の改訂版。
突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。
養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)
撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。
天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。
養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。
養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良
撰定から施行まで40年もかかっている。
オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。
女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。
(大宝律令の持統上皇も女帝。)
(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)
古代 奈良時代
43 | 元明 | げんめい | 707 | 息子で先代の文武天皇が幼い皇子をのこして 亡くなったため即位。 歴代天皇のなかで息子から母へ皇位が継承さ れた唯一の例。 都を平城京へ遷す。 |
44 | 元正 | げんしょう | 715 | 歴代天皇で唯一母親から娘へ皇位が継承され た女帝。 元正天皇が亡くなったとき、それまでの歴代 天皇といっしょに漢風諡号をつけられる。 (神武、綏靖、...、推古、...元正) これが習慣化され、いまでもつづく。 天皇の名前が覚えられるのはこの人のおかげ 。 |
45 | 聖武 | しょうむ | 724 | はじめての『藤原の天皇』。 母と皇后が藤原不比等の娘。 政治よりも仏教にのめり込み、天平文化を作 った。 東大寺(奈良の大仏)、国分寺を作る。 |
46 | 孝謙 | こうけん | 749 | 日本の歴史で唯一女性の皇太子になる。 仏教を深く信仰したことで知られる。 皇太子をクビにして処刑。 天皇をクビにする。 こわ~い女帝。 |
47 | 淳仁 | じゅんにん | 758 | 孝謙上皇から天皇をクビにされる。 長い間、天皇として認められなかった。 (淡路廃帝) 親王宣下をはじめる。 |
48 | 称徳 | しょうとく | 764 | 孝謙上皇が重祚して即位。孝謙天皇と同一人 物。 皇位を皇族でない僧の弓削道鏡(ゆげのどう きょう)へ譲ろうとしたことが有名。 (道鏡事件) |
49 | 光仁 | こうにん | 770 | 呑んだくれて、アホのふりして生き延び天皇 にまでなる。 史上最高年齢の即位(61才)。 事務次官級の官僚を経験した。 |
親王宣下(しんのうせんげ)
天皇から『親王になりなさい』と宣下を受けること。宣下は天皇からの命令。
正式に天皇の皇位継承権をもつことを意味する。宣下を受けた人は、親王、内親王を名乗る。
男性が親王。女性が内親王。
天皇の子ども・孫など直系子孫が宣下を受けた。
天皇の子孫でも宣下を受けてない人は王になる。民間人になると王の称号もなくなる。
はじめて親王宣下をしたのは奈良時代の第47代 淳仁天皇。
親王宣下のないころ、飛鳥・奈良時代の皇族は、天皇の子どもが親王(内親王)、孫から王(女王)だった。
大宝律令の中で制度化したと思われる。
(正確な決まりはない。)
親王宣下は皇族の生まれた立ち位置で自然に決まっていた制度を指名制に変えた。
宮家(世襲親王家)は、本来なら王や民間人になるような人だったが、宣下を受けて親王を名乗った。
明治以降、皇室典範で親王宣下のルールは決められている。
天皇の孫までは親王(内親王)、それ以上血統が離れると王(女王)。
範囲が子から孫へ広がったのは、昔は天皇の子どもが多かったのと、奈良時代は皇族が政権の役職・官僚のトップを務める皇親政治で、そのランクにも使われたので、範囲が広すぎると権力闘争で安定しないから。
古代・中世 平安時代 - 初期 -
50 | 桓武 | かんむ | 781 | 平安京遷都。 国軍を廃止して征夷大将軍を作る。 仏教をリニューアルした。 最澄と空海が2大ニュースター。 |
51 | 平城 | へいぜい | 806 | 嫁の母と禁断の愛に溺れてクーデター失敗。 平安時代なのに平城京ラブの人。 |
52 | 嵯峨 | さが | 809 | 幼いころから『天子の器』と言われたハイス ペック。 平安時代の基礎を作る。 経費削減で妻・子ども30人を民間人にしたコ ストカッター。(臣籍降下) 源氏の生みの親。(嵯峨源氏) |
53 | 淳和 | じゅんな | 823 | 臣籍降下して民間人になりたかった人。 兄・平城天皇のときに省の事務次官を歴任し たザ・官僚。 平氏の生みの親。(桓武平氏) 歴代天皇で唯一、散骨された。 |
54 | 仁明 | にんみょう | 833 | 直系で皇位を継ぐ慣例ができる。 承和の変で藤原北家が一人勝ちし平安のスタ ンダードになる。 藤原良房(ふじわら よしふさ)の天下。 |
55 | 文徳 | もんとく | 850 | 藤原一強の時代が始まる。 暗殺された説もあり。 しばらく不在だった太政大臣が復活。 初めて皇族以外の人が太政大臣になる。 (藤原良房) |
源氏二十一流(げんじにじゅういちりゅう)
天皇の子孫の氏族の源氏には21の系統がある。その総称。
天皇の息子・孫を臣籍降下して民間人にするのに源(みなもと)姓は多く使われ、第52代 嵯峨天皇の息子から始まる。
平安時代の初期から中期にかけて、天皇は源氏を作るのが常識なほど一番多く作られた。
ペースは徐々に落ちていくが、戦国時代の第106代 正親町天皇の系統が江戸時代初期に作られたのが最後。
1 | 第52代 嵯峨天皇 | 嵯峨源氏 (さが) | 最初は、左大臣・右大臣など、藤原氏と並ぶ政治家一門だった。 徐々に藤原氏に押され有力政治家を出さなくなる。 渡辺氏、松浦氏、蒲池氏など知る人ぞ知る武士に残った程度。 |
2 | 第54代 仁明天皇 | 仁明源氏 (にんみょう) | 嵯峨源氏と同じく、藤原氏と並ぶ政治家一門だった。 仁明源氏の中から平氏に枝分かれしたのもいる。 (仁明平氏) 徐々に藤原氏に押され有力政治家を出さなくなり、その後目立った人は出ていない。 |
3 | 第54代 文徳天皇 | 文徳源氏 (もんとく) | 前例と同じく藤原氏と並ぶ政治家一門だった。 徐々に藤原氏に押され有力政治家を出さなくなり、その後目立った人は出ていない。 |
4 | 第56代 清和天皇 | 清和源氏 (せいわ) | 政治家としてはパッとしない。 国司や軍事専門の地方役人などに多くの人を輩出する。 それらが武士となり、日本最高の武家一門に成長する。 源頼朝、足利高氏など有力武将は数知れず。 貴族としては公卿にギリギリ滑り込んだ程度。 唯一残っていた竹内家がつづき明治に華族になった。 21の源氏の中でもっとも有名になった家。 村上源氏以外でただひとり、足利義満が太政大臣になった。 |
5 | 代57代 陽成天皇 | 陽成源氏 (ようぜい) | 多くの公卿を輩出する政治家一門だったが、これまでの源氏と比べ見劣りする。 その後も目立った貴族、武士などはいない。 |
6 | 代58代 光孝天皇 | 光孝源氏 (こうこう) | 最初は、中納言を輩出するなど政治家一門だったがフェードアウト。 その中でひとり、康尚(こうしょう)が仏師になり日本仏教彫刻の最大勢力、慶派(けいは)を作っていく。 鎌倉時代の有名な彫刻家、運慶・湛慶(うんけい・たんけい)もその子孫。 その他、数々の天才彫刻家は数知れず。 慶派は幕末の動乱まで仏師の主流だった。 (日本の彫刻界の中心だったと言ってもいい。) |
7 | 第59代 宇多天皇 | 宇多源氏 (うだ) | 最初は左大臣を出すなど政治家一門だったがフェードアウト。 鎌倉時代には綾小路家・大原家など公卿の中堅に多くを出した。 明治になると多くが華族になる。 佐々木氏など有力武士も多いが天下取りを争うほどではない。 |
8 | 第60 醍醐天皇 | 醍醐源氏 (だいご) | 最初は左大臣を出すなど政治家一門だったがフェードアウト。 その後、貴族ではあったが地下家(じげけ)で上流貴族になれていない。 地方に散らばり武士になった人も多いがメジャーではない。 |
9 | 第62代 村上天皇 | 村上源氏 (むらかみ) | 多くの源氏が朝廷でフェードアウトする中、最後まで上流貴族を保った。 (天皇の子孫の意地を見せた。) 藤原氏にかくれているが、貴族の源氏と言えば村上源氏というくらいの勢力。 源氏で最大の3人の太政大臣を出す。 明治維新の岩倉具視(いわくら ともみ)を出した。 武士では北畠氏(きたばたけ)を出した。 |
10 | 第63代 冷泉天皇 | 冷泉源氏 (れいぜい) | 作られた当初から存在感がない。 本当にあったのか? と思うほど。 |
11 | 第65代 花山天皇 | 花山源氏 (かざん) | ギリギリ上流貴族の半家に白川伯王家(しらかわはくおう)が残っただけ。 1家で頑張ってきたが昭和になって断絶した。 |
12 | 第67代 三条天皇 | 三条源氏 (さんじょう) | 貴族では最初からパッとしない。 僧侶や天皇の妻などになり目立たない。 |
13 | 第71代 後三条天皇 | 後三条源氏 (ごさんじょう) | ひとりだけ源氏になった源有仁(みなもと の ありひと)は左大臣までなったが後継者がいなくて断絶。 武士の中には後三条源氏を名乗るものがいたが自称の可能性が高い。 |
14 | 第77代 後白河天皇 | 後白河源氏 (ごしらかわ) | 反平家の挙兵をした以仁王(もちひとおう)ひとりだけ。 皇籍を剥奪され懲罰で源氏になった。 討伐軍に追われて戦死。 |
15 | 第84代 順徳天皇 | 順徳源氏 (じゅんとく) | ひとり左大臣を出した。 室町幕府 第3代 将軍・足利義満(あしかが よしみつ)のときに最後の一人が出家してしまい断絶。 |
16 | 第88代 後嵯峨天皇 | 後嵯峨源氏 (ごさが) | 源惟康(みなもと の これやす)ひとりだけ。 鎌倉幕府 第7代 征夷大将軍になる。 親王のままの将軍は都合が悪いから源氏になった可能性が高い。 |
17 | 第89代 後深草天皇 | 後深草源氏 (ごふかくさ) | 鎌倉幕府 第8代 将軍・久明親王(ひさあきら)の孫が源氏になる。 大納言にまでなったがあとが続いていない。 |
18 | 代90代 亀山天皇 | 亀山源氏 (かめやま) | 特筆する人はない。 |
19 | 第84代 後二条天皇 | 後二条源氏 (ごにじょう) | 特筆する人はいない。 |
20 | 第96代 後醍醐天皇 | 後醍醐源氏 (ごだいご) | 後醍醐天皇の孫が源氏になったと言われるが、詳細がない。 (信憑性はないかも?) 武家の大橋氏、神社を代々守る社家の氷室氏など末裔を名乗る氏族はいる。 |
21 | 第106代 正親町天皇 | 正親町源氏 (おおぎまち) | 正親町天皇は織田信長・豊臣秀吉のころの天皇だが、江戸時代にその子孫が源氏になる。 広幡家(ひろはた) 摂関家に次ぐ清華家になるなど格別の待遇を受けた。 明治になると華族になる。 |
源氏として活躍したのは平安中期までに作られた源氏で、村上源氏で勢いは止まる。
その後は活躍する人が出ていない。鎌倉時代は幕府の将軍が大きく関係している。
臣籍降下(しんせきこうか)
皇族が臣下の籍に降りること。
皇族が民間人になって皇室から離れること。
奈良時代は罰として皇籍剥奪として行われることもあり、反省して許されると皇族に戻ることもあった。
平安時代以降は、貴族だけでなく仏門に入る人も増え、皇族数の調整弁に使われることが多くなった。
貴族の家格(かかく)
平安時代になると特定の家が要職を占めるようになる。
鎌倉時代になると貴族のランクが家単位で固まった。それを家格という。
1 | 摂関家 (せっかんけ) | 摂政、関白、太政大臣になる。 五摂家。 すべて藤原北家の流れ。 |
2 | 清華家 (せいがけ) | 摂政・関白はなれないが、太政大臣になる道があった。 江戸時代には最高位が左大臣に下げられる。 (江戸時代に太政大臣は摂関だけに限定。) 三条(さんじょう) 西園寺(さいおんじ) 徳大寺(とくだいじ) 久我(こが) 花山院(かざんいん) 大炊御門(おおいのみかど) 菊亭・今出川(きくてい。または、いまでがわ) の7家。 久我家は唯一、天皇の子孫の源氏の流れ。 (村上源氏) ほかはすべて摂関家に食い込めなかった藤原氏北家。 江戸時代に広幡家(ひろはた)と醍醐家(だいご)を追加した。 広幡家は第106代 正親町天皇の子孫の正親町源氏。 醍醐家は五摂家のひとつ一条家の分家。 |
3 | 大臣家 (だいじんけ) | 清華家の分家。 摂関家・清華家はなれない参議 -> 中納言とステップアップする家。 大納言・近衛大将を飛び越えて内大臣になる道もあった。 (まれに右大臣になる人もいた。) 太政大臣になることもできたが江戸時代に廃止。 正親町三条・嵯峨(おおぎまちさんじょう。のちにさが) -> 三条家の分家。藤原氏。 三条西(さんじょうにし) -> 正親町三条の分家。藤原氏。 中院(なかのいん) -> 久我の分家。村上源氏。 の3家。 |
4 | 羽林家 (うりんけ) | 近衛少将・中将になる。 参議 -> 中納言 -> 大納言にステップアップする家。 軍事を担当する。 江戸時代には大名家に与えられた。 藤原北家: 51家(上位や同じ羽林家からの分家) 藤原南家: 4家 村上源氏: 8家(久我の分家) 宇多源氏: 3家 数がいきなり増える。また、藤原南家、宇多源氏など、上位に見られない系統もある。 |
4 | 名家 (めいけ / めいか) | 序列は羽林家と同じ。 最高位も同じで大納言。 (例外で左大臣になる人もいた。) 天皇のお世話係の侍従・文書作成などの弁官から出世する。 羽林家は武門に対して名家は文官。 藤原北家: 25家 桓武平氏: 3家 平安末期にイケイケだった平家がひっそりと残る。 |
5 | 半家 (はんけ) | 大納言になった人がいるがほとんどが参議になってない。 (上流貴族でも政権中枢に入れない) 特殊技能を使って朝廷の仕事をした。 藤原北家: 2家 清和源氏: 1家 宇多源氏: 2家 花山源氏: 1家 桓武平氏: 2家 菅原氏(すがわら): 6家 清原氏(きよはら): 3家 大中臣氏(おおなかとみ): 1家 卜部氏(うらべ): 4家 安倍氏(あべ): 2家 丹波氏(たんば): 1家 大江氏(おおえ): 1家 いろいろな氏族が入っている。 菅原道真(すがわら の みちざね)の菅原氏、マイナーな源氏など。 清原氏は天皇の子孫。源氏よりも古く、飛鳥・奈良時代の天皇から分家した。 大中臣氏は藤原氏の祖先・中臣氏の流れ。藤原氏の本家筋。 古代から宮中祭祀を仕切る仕事をしてきた。 卜部氏は卜筮(ぼくぜい)という占い専門の集団。 安倍氏も天皇の子孫。第8代 孝元天皇の皇子・大彦命(おおひこ の みこと)の流れで天皇の子孫でもダントツに古い。 (神話の話で信憑性も薄い。) 安倍氏の系統・土御門家(つちみかどけ)は陰陽道を駆使した。 陰陽師・安倍晴明(あべ の せいめい)がいた家。 丹波氏は、第15代 応神天皇のころに来日した渡来系氏族の末裔。 坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)を出した坂上氏の分家。 医療技術(薬剤を含む)を駆使し多くの医者を出した。 大江氏は、古代からの氏族・土師氏(はじうじ)の分家と言われる。 土師氏は埴輪(はにわ)を開発した野見宿禰(のみ の すくね)から始まる土木技術を得意とした氏族。 (ちなみに、野見宿禰は日本最古の力士・相撲取りとも言われる。) 上流貴族にギリギリ入り込んだランクではあるが、氏族・得意分野のバリエーションが多く魅力的な集団。 |
表の6つのカテゴリは堂上家(どうじょうけ)といい、天皇の住居兼オフィスの清涼殿(せいりょうでん)に入ることが許された貴族。
堂上家は太政官の政権中枢の役職(中納言・大納言・右大臣・左大臣)になれる貴族で公卿(くぎょう)ともいう。
堂上家に対して、昇殿を許されない貴族もいた(江戸時代には460家以上)。地下家(じげけ)という。
また、堂上家(公卿)じゃないのに昇殿が許された人を殿上人(てんじょうびと)という。
これらのカテゴリは貴族の位階で決まっていた。
正一位 従一位 正二位 従二位 正三位 従三位 | 堂上家 | 無条件に清涼殿への出入りが許される。 政権中枢の人しかいない。 今でいうと、代々内閣の閣僚を務める家。 |
正四位上 正四位下 従四位上 従四位下 正五位上 正五位下 従五位上 従五位下 | 殿上人 | 本来は清涼殿への出入りは許されないが、天皇が認めた者だけ許された。 実態は堂上家が認め天皇が追認。 この中には太政官以外の、国司や検非違使、六衛府の長官なども含まれる。 今でいうと、内閣府も含め各省庁の長官で天皇に謁見が許される人がいたということ。 |
正六位上 以下 | 地下家 | 清涼殿への出入りが許されない。 |
朝廷の官職は位階によって決まるので、自動的に家柄で役職が決まった。
位階と官職はリンクしているので2つセットで官位(かんい)という。
五摂家(ごせっけ)
平安時代の摂関政治では摂政・関白になれる家は決まっていた。それを摂関家(せっかんけ)という。
鎌倉時代以降、摂関家の中でさらに摂政・関白になれる家柄がしぼられた。その5家のことを五摂家という。
- 近衛(このえ)
- 九条(くじょう)
- 二条(にじょう)
- 一条(いちじょう)
- 鷹司(たかつかさ)
くわしくは『摂関政治とは何か?』で。
五摂家は明治に入ってもつづき、華族制度ができてからは華族として位置づけられた。
1947年の華族制度の廃止まで、由緒ある家として知られていた。
嵯峨天皇以降、藤原冬嗣・良房(ふじわら ふゆつぐ・よしふさ)親子で藤原氏一強になりつつありますが、嵯峨源氏の嵯峨天皇の皇子たちが政権中枢にたくさん入っています。右大臣・左大臣まで登りつめる人も。
太政官の政権中枢だけを見れば、藤原氏・嵯峨源氏(元皇族)のツートップ政治と言ってもいいです。
(ただし、天皇の信頼は藤原氏のほうが大きい。)
中世 平安時代 - 中期 -
摂関政治のはじまり。天皇は政治権力から離れていく
幼い清和天皇が即位したことや、皇族以外の人が摂政になったことから摂関政治がはじまり、ここから天皇が政治権力からはなれていきます。
天皇の外戚になった藤原氏が摂政・関白になって政権を掌握しますが、まだまだ嵯峨源氏も健在。
56 | 清和 | せいわ | 858 | 初めての子どもの天皇。 初めて皇族以外の人が摂政(人臣摂政)にな る。(藤原良房) |
57 | 陽成 | ようぜい | 876 | 歴代天皇の中でもトップクラスのぶっ飛んだ ヤバい人。 清和天皇につづく幼帝。 殺人を犯して天皇をクビになる。 でも、百人一首に選ばれるほどの文化人。 |
58 | 光孝 | こうこう | 884 | 55才で即位したお爺ちゃん天皇。 先代・陽成天皇の皇后の父(義父)。 たくさんいた自分の子どものほとんどを臣籍 降下させて民間人(源氏)にする。 |
59 | 宇多 | うだ | 887 | 皇族 -> 源氏 -> 天皇と立場を渡り歩いた唯一 の人。 摂関政治を一時停止して自分がリーダーシッ プを取る。 菅原道真(すがわら みちざね)とコンビで政 治を行った。 天皇経験者ではじめて寺の住職になる。 (史上初の法皇) 真言宗御室派の開祖。 |
60 | 醍醐 | だいご | 897 | 歴代天皇で唯一民間人出身の天皇。 天皇親政の教科書になったほどの政治家。 菅原道真の呪いで死ぬ。 延喜の治(えんぎのち)と言われるほど評価 は高い。 |
61 | 朱雀 | すざく | 930 | 菅原道真の怨霊にビビって押しつけられた即 位。 平将門(たいら の まさかど)、藤原純友( ふじわら すみとも)の反乱も道真の怨霊のせ いにされた。 道真の怨霊に悩まされババを引いた運の悪い 天皇。 |
62 | 村上 | むらかみ | 946 | 最後の律令政治。 天暦の治(てんりゃくのち)という。 醍醐天皇の延喜の治と並んで延喜・天暦の聖 代と言われる。 平安時代の天皇の治世の中で後世に高評価を 受けている。 最後まで上流貴族をキープした村上源氏の祖 先。 |
63 | 冷泉 | れいぜい | 967 | リフティング大好き美少年。 でも、評価は最低のイッちゃってる奴。 ただアスリート気質だけのようにも見える。 歴代天皇の中でも悪評の高い天皇のひとり。 |
64 | 円融 | えんゆう | 969 | 藤原兼通(ふじわら かねみち)・兼家(かね いえ)兄弟の争いで踏んだり蹴ったり。 息子と嫁に会わせてもらえず退位する。 |
65 | 花山 | かざん | 984 | 教科書に載せられないエロエロ・マシーン。 でも、一途に皇后を愛するあまり退位する。 (在位2年。) 一節には騙されてクビになったとも。 天才アーティストの一面ももつ。 |
66 | 一条 | いちじょう | 986 | 天皇自身は無名だが平安文化の頂点の時代。 藤原氏最強の男・藤原道長(みちなが)の登 場。 清少納言(せい しょうなごん) 紫式部(むらさき しきぶ) 和泉式部(いずみ しきぶ) 安倍晴明(あべ の せいめい) etc... 平安時代を代表するスターたちがいた。 |
67 | 三条 | さんじょう | 1011 | 藤原道長にいじめられて退位する。 それでも、退位の条件に道長にゆかりのない 息子を時期皇太子にすることで抵抗した。 |
68 | 後一条 | ごいちじょう | 1016 | 藤原道長の孫。 三后(さんこう。太皇太后・皇太后・皇后) が道長の娘。 藤原氏の絶頂期。 |
69 | 後朱雀 | ごすざく | 1036 | 急転直下に世が乱れる。 比叡山の抗争が激化。(山門派 vs 寺門派) 天然痘の流行。 天皇も天然痘で死す。 |
70 | 後冷泉 | ごれいぜい | 1045 | いろんなことが起きすぎて、終末思想を信じ る世の中に。 末法思想から浄土信仰(じょうどしんこう) が生まれる。 天皇はすべてを関白・藤原頼通(よりみち) に任せた。 |
中世 平安時代 - 末期 -
摂関政治の終わり。天皇親政の院政が始まる
正確には後三条天皇は上皇になって院政をしていません。しかし、後三条天皇の朝廷改革が院政のきっかけになったことから、院政の生みの親になります。
ここでは、後三条天皇から政治権力が完全に鎌倉武士に移った承久の乱で退位する仲恭天皇までを院政期とします。
71 | 後三条 | ごさんじょう | 1068 | 藤原氏・摂関政治の堕落ぶりを改革した院政 の生みの親。 終末思想が落ち着いて、新しい時代が来る雰 囲気があった。 |
72 | 白河 | しらかわ | 1073 | 3人の天皇(堀河、鳥羽、崇徳)の上に君臨 して院政を行った大政治家。 |
73 | 堀河 | ほりかわ | 1087 | 父の陰にかくれた文化人。 |
74 | 鳥羽 | とば | 1107 | 祖父・白河上皇の彼女を押しつけられたコン プレックスの塊。 |
75 | 崇徳 | すとく | 1123 | 本当はひいお祖父さんの白河上皇の息子だと 、父・鳥羽上皇に思われて嫌われる。 恵まれない境遇に、最後は魔王になる。 |
76 | 近衛 | このえ | 1142 | 権力闘争に巻き込まれた上に17才で亡くなっ たので実績を残せず。 |
77 | 後白河 | ごしらかわ | 1155 | 平清盛、源頼朝のふたりを手玉に取った大政 治家。 |
78 | 二条 | にじょう | 1158 | 父・後白河上皇に真っ向から当たって砕けた 男気の人。 |
79 | 六条 | ろくじょう | 1165 | 史上最年少(生後7ヶ月)で即位。 そして、史上最年少(5才)で上皇になる。 |
80 | 高倉 | たかくら | 1168 | 後白河上皇と平清盛の後ろ盾で即位。 しかし、二人の後見人の対立に右往左往する ばかりで存在感を示せず。 |
81 | 安徳 | あんとく | 1180 | 『平家の、平家による、平家のための』天皇 として即位。 が、世の流れに見放されて自殺する。 |
82 | 後鳥羽 | ごとば | 1183 | 事実上、最後の院政。 文武の両方に類まれな才能を持ったために鎌 倉幕府と対立(承久の乱)。 佐渡ヶ島に島流しされる。 菊のご紋が天皇の家紋になった始まり。 |
83 | 土御門 | つちみかど | 1198 | 父・後鳥羽上皇と鎌倉幕府の対立のとばっち りを食らう。 土佐に島流しされる。 |
84 | 順徳 | じゅんとく | 1210 | 鎌倉幕府と対立した父・後鳥羽上皇を助ける ために天皇を退位。 が、あっさりと敗れ隠岐に島流しされる。 |
85 | 仲恭 | ちゅうきょう | 1221 | 祖父・後鳥羽上皇と父・順徳上皇が島流しの 刑にあったため、鎌倉幕府の要求で無理やり 退位させられる。 在位期間70日は歴代天皇ワースト1位。 |
中世 鎌倉時代
武士の政権が始まる。約800年、天皇は政治権力から遠ざかる。
鎌倉時代は1192年にはじまり後鳥羽天皇からです。しかし、この時点で鎌倉武士が日本全土を掌握したわけではありません。
完全に掌握したのは1121年の承久の乱のあとです。ここでは、承久の乱のあとに幕府主導で即位した後堀河天皇からを鎌倉時代とします。
後嵯峨天皇は、大覚寺統(だいかくじとう)と持明院統(じみょういんとう)という内部対立を作りました。
これがそのまま室町時代の南北朝分裂へと発展します。
86 | 後堀河 | ごほりかわ | 1221 | 寺に入って僧侶になる準備をしていたが、突 然、天皇になる。 出家していた父・守貞親王も上皇になった( 後高倉院)。 後高倉院は天皇を経験してない異例の上皇に なる。 |
87 | 四条 | しじょう | 1232 | いたずらでドッキリを仕掛けて自分がそれに ハマる。 それが原因で死んでしまったおマヌケちゃん 。 |
88 | 後嵯峨 | ごさが | 1242 | 好き嫌いで天皇を交代させる。 そのあと後継者問題を幕府に丸投げしたいい 加減な人。 南北朝統一までの150年におよぶ皇室の内部 分裂を生む。 |
89 | 後深草 | ごふかくさ | ||
90 | 亀山 | かめやま | ||
91 | 後宇多 | ごうだ | ||
92 | 伏見 | ふしみ | ||
93 | 後伏見 | ごふしみ | ||
94 | 後二条 | ごにじょう | ||
95 | 花園 | はなぞの |
中世 室町時代
朝廷が混乱して2人の天皇が存在する異例の事態に
後醍醐天皇が室町幕府に敗れたので朝廷が混乱・二分されて、同時に二人の天皇が存在する異例の事態になります(南北朝時代)。
96 | 後醍醐 | ごだいご | |||
97 | 後村上 | ごむらかみ | 北朝第1代 | 光厳 | こうごん |
98 | 長慶 | ちょうけい | 北朝第2代 | 光明 | こうみょう |
99 | 後亀山 | ごかめやま | 北朝第3代 | 崇光 | すこう |
100 | 後小松 | ごこまつ | 北朝第4代 | 後光厳 | ごこうごん |
101 | 称光 | しょうこう | 北朝第5代 | 後円融 | ごえんゆう |
102 | 後花園 | ごはなぞの |
中世 戦国時代
財政に困窮して祭祀もままならず。日本全土の混乱期。
応仁の乱で日本の治安は不安定になり戦国時代に突入します。
戦国時代は朝廷にとって一番の冬の時代です。各地でそれぞれの武将が領地をとりあったため、朝廷はだれから税を取っていいのか分からず、財政が困窮しました。
大事な祭祀も行えないほど。
(そもそも戦乱で荒れ果てた田畑も多く取れる税もない。)
この貧乏生活は、織田信長が支援をはじめるまでつづきます。
103 | 後土御門 | ごつちみかど | ||
104 | 後柏原 | ごかしわばら | ||
105 | 後奈良 | ごなら | ||
106 | 正親町 | おおぎまち |
近世 江戸時代
徳川幕府に完全に押さえつけられるが、存在感が増していく
政治権力は完全に徳川幕府にもっていかれ、法律でも抑圧されます。しかし幕府の失政のたびに天皇に助けを求める声が上がり、逆に存在感が大きくなっていきました。
この流れが、幕末の近代化の原動力になっています。
107 | 後陽成 | ごようぜい | ||
108 | 後水尾 | ごみずお | ||
109 | 明正 | めいしょう | 1629 | 父・後水尾天皇が徳川幕府にブチ切れして即 位する。 2代将軍 徳川秀忠、正室 お江の方の孫娘。 織田・浅井・徳川家の血を受け継ぎ、さらに 豊臣家の親戚。 |
110 | 後光明 | ごこうみょう | ||
111 | 後西 | ごさい | ||
112 | 霊元 | れいげん | ||
113 | 東山 | ひがしやま | ||
114 | 中御門 | なかみかど | ||
115 | 桜町 | さくらまち | ||
116 | 桃園 | ももぞの | ||
117 | 後桜町 | ごさくらまち | 1762 | いまのところ、最後の女帝にして最後の院。 |
118 | 後桃園 | ごももぞの | ||
119 | 光格 | こうかく | ||
120 | 仁孝 | にんこう | ||
121 | 孝明 | こうめい | 幕末の混乱期にリーダーシップを取る。 大の外国嫌い。 妹・和宮(かずのみや)を将軍家に嫁に出し たり、権力闘争に積極的に参加した。 |
近代 明治時代
近代思想との調整を必要とする初めての経験
天皇という存在自体、近代思想とは相いれないところがあります。日本はその答えとして、『象徴天皇』にたどり着きました。
この答えが正しいのかどうかわかりません。この問いは日本人が永遠に考えつづけなければならない宿題なのでしょう。
122 | 明治 | めいじ | 1868 | 明治新政府の意向で、マッチョなリーダー像 として教育される。 軍人の天皇は古代以来、久しぶりの形。 |
123 | 大正 | たいしょう | 1912 | 欧米の王族との交流から、近代の君主の形を 学び取り入れていく。 体が病弱だったため、まわりから側室をもつ ように意見されるが頑なに拒否した。 |
124 | 昭和 | しょうわ | 1926 | 最後の軍人天皇。 でも本当の姿は学者。歴史の体現者。 20才で摂政になり事実上のトップになる。 (今のところ最後の摂政。) 歴代の天皇で最長の在位期間。 (これより長いものは古すぎて信憑性がない 。) |
125 | 上皇 | 平成 (へいせい) | 1989 | 2019年4月末で『平成』が終わりました。 上皇陛下は、象徴天皇として即位して象徴天 皇としてまっとうされました。 |
126 | 今上 | きんじょう | 2019 | 新時代・令和の年号です。最初に平成を聞い たときよりは違和感がないように感じます。 (ぼくだけ?) 昭和があまりにも長かったからでしょうね? |